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ゼンソウ シコウ
全琮 子璜
  
~人格優れる能臣~

 呉の官僚、軍人。孫権に仕え、国境地帯で活躍する。後に東安太守となり、未開地を治め、不服従民を恭順させる。都に入ってのち、魏への外征に従事する。



初期
・揚州の呉郡出身。全柔の子。全柔は孫策に仕え、やがて桂陽太守となる。

・全琮はあるとき、全柔の命令を受け、呉郡に赴く。目的は、米数千石を売り、必要な物を買ってくること。到着後、米を全て、人々に分け与える。
・帰還後、全柔が怒ると、全琮はこう述べる。「買って参ります物は、どれも、差し迫って必要ではありません。一方、かの地の人々は、まさに苦しみの中にいました。だからその場で、生活の足しとすべく、米を分け与えたのです。(全柔に)許しを得る暇はありませんでした。」全柔はこれを聞き、その非凡さを認める。(古代中国は、争いが多い反面、仁や義を重んじる空気あり。全琮は、若くしてそれを発揮した。)

・ある時期、中原から、多くの人々が江南(長江の南)に避難。(全琮の住む桂陽も、江南に位置する。)その中の数百家が、全琮を頼る。全琮は家財を傾け、彼等を援助し、所有物も全て共有する。(大規模な福祉行為。仁心だけでなく、事務能力にも長けていた。)これにより、広く人々に名を知られる。




各地で活躍
・孫権に仕官し、奮威校尉に任じられる。
・山越(山地の異民族の総称)の討伐で活躍する。その際兵を募集し、精兵一万を手に入れる。

牛渚(ぎゅうしょ)に駐屯する。(長江の南東岸。)この頃、偏将軍に任じられる。(偏将軍とは、将軍に次ぐ指揮官。)
・呂範(呉の将)が、洞口で曹休(魏の将)と対峙する。(洞口は長江の河口の一つ。)全琮は、呂範の指揮下に置かれる。常に態勢を整備。敵が中州に進軍した際、これを撃退する。この功により、将軍位を与えられる。
・九江太守に任じられる。(九江郡は、実際は魏領。建前上の任命。)
・曹休が呉領に侵入し、陸遜がこれと対する。全琮はこれに従い、朱桓と共に両翼となる。陸遜は三方から攻撃し、曹休を敗走させる。




東安太守となる
・丹陽、呉、会稽の三郡で山越が反乱。孫権は三郡の内、問題のある地域を分離。別に統治することとする。治所として、(安定している)富春県を組み込み、東安郡を設立。全琮が、東安太守に任じられる。(なお、富春県は、元は呉郡に所属。孫堅・孫策の出身地でもある。)

・東安統治に取り掛かる。賞罰を明確にする一方、山越たちに盛んに布告し、利害を説く。数年の内に、一万人が帰順したという。(当時の呉王朝は、未開地域を強引に従わせ、結果反発が起こった。全琮は規律を定め、方針を明示することで、信頼を得た。)


再び牛渚に駐屯する。東安郡は、(秩序が戻ったため)廃止。
・東安から戻る途中、故郷に立ち寄る。人々に財物を分け与え、その額は何千何万に上る。住人は皆、郷土の誉れと称える。




忠言
衛将軍、左護軍に任じられる。(衛将軍は、高位の将軍職。護軍は、首都の軍を統括。)更に、徐州牧に任じられる。(徐州は、実際は魏の領地。建前上の任命。)また、孫権の娘を賜る。


・孫権が夷州(東の海の島々)での人狩りを考え、軍の派遣を計画。全琮はこれを諌める。「必ず風土病にかかります。軍は無事に帰れぬ恐れがあります。長江沿岸の守備兵を減らしてまで、万分の一の確率でしか得られぬ利を求めること、私には理解しかねます。」(また、当時陸遜が荊州にいたが、同じく孫権の計画に反対。書簡を送って諫言している。)孫権はそれでも強行し、失敗して後悔する。

・孫権は太子孫登に出征を命じ、進軍が開始される。不適当な指令だったが、誰も諌めようとしない。そこで、全琮は進み出る。「古(いにしえ)より、太子が一人で軍を率い、出征したという例はありません。主君に随行する場合は撫軍、留守を守る場合は監国と呼ばれます。この二つしかありません。」孫権はこれを聞き、孫登を呼び戻す。




外征
・六安(りくあん)に進軍する。(六安は、魏の廬江郡の首都。)あるとき、一部の住民が逃げ散り、部下達は「兵を分けて捕らえるべし」と主張する。全琮は述べる。「それには危険を伴う。成功のためには僥倖を期待することになり、賭けにならざるを得ない。仮に成功しても、敵の力はさして弱まらない。国家のことを考えるなら、行うべきではない。」

・淮南(淮水南の地域)に進軍する。(一方、朱然が樊城を攻略。)各地を制圧したが、孫礼(魏の揚州刺史)が芍陂(しゃくひ)で防戦する。全琮は勝つことはできず。(なお、芍陂は寿春(州都)の南西に位置。)




逸話
・常に恭しく人と接し、相手の気持ちを鑑みつつ意見し、きつい言葉で非難することはなし。一族も皆富貴を得たが、全琮は依然謙虚に士と接し、驕る素振りがなかったという。
・初めは勇と決(決断力)をもって将となり、難に望み敵に当たり、我が身を顧みず奮い立ったという。総指揮官となってからは、威を養い重く持し、常に計策によって動き、小さな利は追わず。


・陸遜とは、二宮事件(跡目争い)をきっかけに不和になる。当時孫和派、孫覇(孫和の弟)派が互いに争っていたが、全琮は孫覇を支持し、子の全奇は孫覇の元に出入り。陸遜は全琮に書簡を送り、「宮廷の争いに関わるべきでない」と説き、全琮は不快になる。(陸遜は、常に正論を吐くタイプ。全琮には恐らく、正論で割り切れない感情があった)
・全琮の死後、子の全繹が跡を継ぐ。


・陳寿は賀斉、全琮、呂岱、周魴、鍾離牧を一まとめにし、こう称賛。「内患である山越問題をよく処理し、国内の安定に力を注いだ。」
・更に、全琮を評して言う。「時代を背負って立つ才能があり、人々から重んじられた。」一方で、こう記す。「子(全奇)の悪事を放置したため、世間から非難を受け、名誉が傷つけられることになった。」




賀斉 歩隲 呂岱


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