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ホシツ シザン
歩隲 子山
  
~鷹揚、誠実な才人~

 呉の官僚、軍人。孫権に仕え、交州(南の辺境)の刺史となり、領内をよく治める。その後荊州に移り、一帯を取り締まる。やがて丞相となる。



初期
・徐州の下邳(かひ)国出身。名家の末裔。(なお、下邳国南部(歩隲の出生地)は、晋の時代に臨淮(りんわい)郡と改称。)
・動乱を避け、江南(長江の南)に移住する。頼るべき人もおらず、困窮したが、同じく徐州出身の衛旌(えいせい)と親密になる。

・衛旌共々、瓜を植えて生活し、夜は経書(儒学の書)の勉強をする。また、哲学や諸芸にも通じる。(諸芸の詳細は不明。恐らく、書道、楽器、弓など。)性格は鷹揚、沈着、謙虚だったという。
・衛旌と共に、豪族の焦征羌(しょうせいきょう)に会う。焦征羌は傲慢な態度を取り、歩隲らを横柄に扱う。衛旌は腹を立てたが、歩隲は平然とし、「彼は身分相応に振舞っているだけ」と言う。(歩隲にとって、重要なことではない。)


・孫権が討虜将軍となる。歩隲は、孫権から招聘される。主記となり、諸事を記録。(なお、衛旌も孫権に仕え、段々出世。)
・一年余りして、病で辞職。治癒後も、すぐには再仕官せず、諸葛瑾・厳畯(いずれも仕官前)と交流して過ごす。三者とも、(有望な人士として)評判を得る。

海塩県(呉郡)の長に任じられる。
・あるとき、孫権が劉備の推挙により、徐州牧に任じられる。(徐州は、実際は曹操の支配下。)歩隲は孫権により、茂才に推挙される。(茂才とは、官僚の候補枠。)
・車騎将軍府の東曹掾(えん)となる。(車騎将軍は孫権で、東曹は人事を司る部局。掾は府の属官で、一つの部局をまとめる。)




交州で活躍
・鄱陽(はよう)太守に任じられる。
・この少しあと、交州において、呉巨(蒼梧太守)が刺史の頼恭を追放。呉巨は孫権に帰服し、交州は孫権の支配下に入る。歩隲は急遽、交州刺史に転任となる。立武中郎将も兼任。

・呉巨は、秘かに離反を企てる。歩隲は、呉巨を会見に誘うと、その席で殺害する。(「三国志」には、この手の記述が多い。穏健派の人物も、目的のために非情になる。)これにより、士燮(ししょう)が孫権に恭順。(士燮は、交州最大の有力者。)


・呂岱が歩隲に代わり、交州刺史となる。歩隲は、荊州長沙郡に赴任する。(郡の首都は臨湘県。歩隲の赴任地は不詳。)同行を願う者が一万人おり、これを引き連れて行く。(相当な人徳があったらしい。人格者であると同時に、頼りになる現実主義者。)




荊州で活躍
・劉備が呉に遠征し、陸遜が夷陵県で迎撃する。(夷陵は、荊州宜都郡の県。)歩隲は、益陽県(長沙郡)に駐屯。(一帯に睨みを利かせ、劉備への呼応を防いだ。)やがて、陸遜は勝利。
・零陵郡、桂陽郡(いずれも荊州)は、依然情勢が安定しない。歩隲は、不服従民の討伐に当たる。全て平定し、二郡は平穏になる。(軍才も備えていた。)

・劉備の死後、益州の豪族雍闓(ようがい)が、蜀王朝に反乱する。歩隲は、雍闓との関係を整える。
・孫権が呉王朝を開く。歩隲は、驃騎将軍に任じられる。また、冀州牧に任じられる。(冀州は、実際は魏の領地。建前上の任命。)

・当時、陸遜(荊州牧)が西陵県(元夷陵県)に駐在していたが、武昌県へ赴任となる。歩隲は、西陵の督に任じられる。陸遜に代わり、西陵県(元夷陵県)を中心とする一帯を監督。




忠臣として
・太子の孫登から、書簡で相談を受ける。内容は、人事に関すること。歩隲は諸葛瑾、陸遜ら11人を推薦し、各々的確に紹介文を書く。(人間観察にも長けていた。)


・孫権が、呂壱という者を寵愛する。呂壱は、些細なことで人々を弾劾し、多くの良臣が害される。歩隲は、孫権に上表する。「古来、法には賢者が携わるものですが、現在の状況は全く違っています。正しい在り方とは、徳を備える者が法を定め(立法)、道理に明らかな者がそれに則して事を行うのです(司法)。今、都には顧雍、武昌には陸遜、潘濬がおり、彼等は皆誠実であって、ただ事実の追求を心がけています。」(以上は、呂壱の代わりに良臣を用いるべき、という忠言。)

・少しのち、再び上表。まず、こう述べる。「賞によって善行を勧め、刑によって悪人をおどし、賢者を用いて能力を発揮させ、法がしっかり運用されたら、自ずと政事は上手くいきます。」(この政治信念は、諸葛亮を思わせる。)
・続いて、こう述べる。「現在、数を揃えるだけの役人が多く、これは民にとって患いにしかならず、民間の活力を奪います。」
・最後にこう述べる。「一部の者はただ権力を振り回し、主君の耳目としての役目は果たさず、民を害するばかりです。」(暗に、呂壱一派を批判。)
・歩隲以外の諸臣も、孫権に諫言する。孫権はやがて事態を悟り、呂壱を誅殺する。


・不遇な才子を推薦したり、困窮している者を救うため、度々上表する。上表書の数は、合計で数十に及んだという。




丞相就任
・陸遜に代わり、丞相に任じられる。(駐在地は、西陵のまま。)その後も、一族の子弟をしっかり教育し、自らも書物を手離さず、質素な生活を続ける。(精神主義者。)ただ、妻と妾にのみ、豪奢な衣類を与えたという。

・西陵に二十年滞在したが、敵方もその威信に敬意を表す。大きな度量を持ち、よく人心を得る。喜怒は、あまり表に出さない。(恐らく、劉備に似た人徳の持ち主。)また、粛然とした雰囲気あり。(実直、謹厳な儒者。この点、諸葛亮に似る。)


陳寿は諸葛瑾、歩隲をまとめて評する。「人を受け入れる器量、模範となる行動をもって、当時有能な人物と見なされた。」




諸葛瑾 賀斉 全琮 呂岱


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