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ラクトウ コウショ
駱統 公緒
  
~実直、優秀な補佐官~

 呉の官僚、軍人。孫権の補佐役となり、常に民情を重んじ、助言に励む。軍事にも長け、濡須の都督を務める。



初期
・揚州の会稽郡出身。父駱俊は陳国の相(しょう)となり、家族も随行。(国相は郡太守と同等。)
・やがて、袁術(野心家の群雄)が陳国を狙う。駱俊は劉寵(陳国の王)共々、袁術の刺客に殺害される。(駱統は当時五歳。)
・その後、母は華歆(かきん)の側室となり、江東に行く。(華歆は当時、豫章太守。)駱統もこれに随行する。
・華歆は曹操の元に赴き、駱統の母も随行。駱統はこのとき八歳だったが、故郷(会稽郡)に帰ることになる。母が見送りに来たが、駱統は振り返らず、側の者に言う。「母上の気持ちに踏ん切りを付けるため、あえて振り返らないのだ」。帰郷すると、義母によく仕える。

・故郷は飢饉の最中。駱統は、あえて自分の食事を減らす。姉から理由を問われると、こう述べる。「立派な家柄の人々でさえ、満足に食事を取れない状況です。私だけいい食事をする訳にいきません。」姉はこれを、義母に伝える。義母は駱統の気持ちを重んじ、家の食糧を人々に分けることを許す。これにより、駱統の名は広まる。


・孫権に仕官し、鳥程県の相に任じられる。(鳥程県は呉郡所属。なお、孫権は当時会稽太守だったが、駐在地は呉郡。)烏程には、民戸が一万。住民は皆、駱統の統治に満足し、「思いやりが深く、筋道も立っている」と称賛する。




補佐役として
・孫権(当時会稽太守)により、功曹に任じられる。騎都尉も兼任。(功曹は人事に広く関わり、太守を補佐する。)また、孫輔(孫権の従兄)の娘を娶る。

・孫権の施策に不足部分があれば、常にそれを正そうとする。何か見聞したことがあると、夜中でも構わず進言する。
・しばしば、時事に関する方策を上奏。その数は、やがて数十に及ぶ。

・孫権に勧める。「賢者、立派な人物と交わり、批判を積極的に求めますよう。また、臣下をもてなすときは、一人一人を御前に呼び、生活の様子を詳しく尋ね、親密な態度で接し、思うところを存分に述べさせますよう。加えて、臣下が願っていることを察することで、皆がその恩に深く感じ入り、“主君との関係を大事にしたい”と心から思うように導くのです。」(以上の発言は、呉の気風をよく表している。魏とは異なり、理より情を重視。)孫権は同意する。


中郎将に任じられる。弓兵三千人を統率。
・凌統の死後、その軍を引き継ぐ。




救民を進言
・民の苦境を見て、孫権に上奏する。まず、こう述べる。「国が有する財、力、威、福、徳、義は全て民を背景にします。また、この六つが備わって、初めて天の御心にかないます。」
・次に、状況を具体的に述べる。「現在、戦乱と疫病で郡県は荒廃し、田畑には草が茂り、民戸は減少しています。力なき民は追い込まれ、その結果、叛徒の仲間に加わるのです。また、生まれた子供達は、家に蓄えがなければ棄てられます。天が生み出した生命を、父母が殺してしまうのです。」

・続いて、民力の重要さを述べる。「国と民の関係は、船と水のようなものです。水が穏やかなら船は安定し、水が乱れたら船は危うくなります。民は無知でも侮ってはならず、無力でも力で御することはできません。」(知られざる名言。)
・更に、地方長官の実態を述べる。「現在、民と直接関わる地方長官は、ただ税と徴用の数を揃えることに才を発揮し、国家が目標とする仁愛・徳に沿った政治は頭にありません。」

・最後に、こう締めくくる。「ご主君は多忙な政務の合間に、少しでも時間をお割きになり、これらのことに心を留め、思いを巡らせてください。」以上の上奏により、孫権は心を動かしたという。




国防・諫言
・劉備が東征し、呉に進軍する。陸遜が劉備を迎撃し、駱統もこれに従う。戦功を挙げ、偏将軍(将軍に次ぐ指揮官)に任じられる。(駱統は軍才も備えていた。)
・曹仁(魏の将)が濡須(じゅしゅ)に進軍。朱桓が濡須の防備に当たり、駱統もこれに従う。曹仁は、部将常雕(じょうちょう)を遣わし、川の中洲を攻撃する。駱統は厳圭と協力し、常雕を撃退する。この功により、濡須の都督に任じられる。


・張温(呉の重臣)は融通の利かない儒者で、孫権に疎まれる。孫権は張温の排除を考え、専横を理由に罪を問う。駱統は上奏文を送り、張温を擁護する。しかし、孫権は聞き入れず、張温を下役人に落とす。
・駱統はこの上奏文の中で、張温の人物像を詳しく述べている。「謀は飛び抜けていないものの、徳、文才、議論の才によって世を輝かせることができ、非常に貴重な存在です。」(駱統は、人の本質を見抜く力もあった。ただ、孫権の心情は変えられず。)


陳寿は駱統を評して言う。「大義を高く掲げ、言葉は鋭く道理に沿っていた。主君が孫権でなければ、もっと才能を発揮できただろう。」




張昭 張紘 諸葛瑾 顧雍


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