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ショカツキン シユ
諸葛瑾 子瑜
  
~穏健で思慮深い忠臣~

 呉の政治家、軍人。常に孫権の心情を鑑み、柔軟に助言を行う。やがて、呂蒙の後任として、南郡太守に任じられる。また、魏軍との戦役に尽力する。



出仕
・徐州の琅邪(ろうや)郡出身。都に行き、学問を広く修める。また、孝行をもって知られる。
・動乱を避け、江南に移住する。(張昭、張紘と同様。)
孫権の長史となる。(孫権は当時、会稽太守。長史とは、補佐官の長。)


・劉備は荊州にあって、曹操の攻撃を受ける。劉備は諸葛亮(諸葛瑾の弟)を使者とし、孫権の元に送る。孫権は諸葛瑾に言う。「弟が兄に従うのは当然のこと。貴方は何故、諸葛亮を引き留めないのか。」諸葛瑾は答える。「諸葛亮が劉備を裏切らないのは、私が孫権様を裏切らないのと同じです。」(絶妙な返答。)孫権はこれを聞き、納得する。




補佐役として
・孫権を諌める際、あえて直言は避ける。まずやんわりと、一通りの意見を述べる。受け入れられない場合、取り合えず話を変え、機会を見て再び意見を述べる。その際、適度に例えを交えるなどする。そうして少しずつ、孫権の気持ちを変えたという。(張昭と対照的。張紘に似る。)


・孫権が朱治(呉郡太守)に不満を感じる。(理由は不明。)朱治はかつて、孫権を孝廉に推挙した人物。孫権は日々、朱治を礼遇しており、怒りをぶつけることができない。諸葛瑾はこれを知ると、孫権・朱治の仲を取り持つことを考える。まず孫権の目の前で、「孫権から朱治への仮想の手紙」を書く。その内容は、道理に照らして(朱治を責める)文言を並べたもの。諸葛瑾は続いて、朱治の考えを推量し、「朱治から孫権への仮想の返書」を書く。結果、孫権は笑って納得する。

・孫権はあるとき、部下の殷模を殺害しようとする。周りが取り成そうとする中、諸葛瑾は黙ったまま。孫権が「何故何も言わないのか」と聞くと、諸葛瑾は言う。「私はかつて、殷模共々、郷里が壊滅する事態に遭遇し、この地でようやく身を落ち着けました。その御恩の万分の一にも報いることができず、逆に彼を罪に走らせてしまい、何も申し上げる資格がありません。」孫権はこれを聞き、殷模を許す。




南郡太守就任
・孫権は荊州を巡り、劉備と争う。諸葛瑾は、劉備への使者となり、関係を構築する。
・劉備が益州を取り、関羽が荊州を守る。やがて、孫権は関羽と開戦し、諸葛瑾も討伐に参加する。勝利に貢献し、将軍位を与えられる。


・呂蒙に代わり、南郡太守に任じられる。公安県に駐在。
・あるとき、何者かに讒言(ざんげん)される。陸遜が上表し、弁護する。孫権は、「端から疑っていない」と返書。
・劉備が関羽の復讐、及び荊州奪還を考え、呉に進軍する。諸葛瑾は劉備に書簡を送り、「魏を先に討つべき」と説いたが、聞き入れられず。(このときの劉備を止めるのは、呉臣の誰にもできなかっただろう。)

・この頃、ある者が、「諸葛瑾は秘かに敵と通じている」と讒言。(恐らく、誠実な性格のため、一部の層と合わず。)しかし、孫権は言う。「子瑜(諸葛瑾)が私を裏切らないのは、私が子瑜を裏切らないのと同じなのだ。」




対魏戦線
公安の督に任じられる。(南郡太守と兼任。)

・魏の曹真、夏侯尚が江陵県(南郡)に進軍し、朱然が城を守る。諸葛瑾は、援軍を命じられる。事前にじっくり計画を立て、臨機応変には動けず、行動が遅れがちになる。孫権はこれに不満を持つ。
・やがて、江陵付近に到着する。潘璋と協力し、夏侯尚と対峙。敵の浮き橋を焼く任に当たり、夏侯尚を撤退させる。華々しい活躍はなかったが、人々から「兵を損なわず領地を守った」と称賛される。

・孫権が合肥に進軍し、陸遜、諸葛瑾は襄陽に進軍。二方面から魏領を攻略する。しかし、呉軍の機密が敵に漏れ、全軍撤退となる。諸葛瑾は陸遜の作戦の元、速やかに諸軍を船に収める。




逸話
・子の諸葛恪は、非凡な才能あり。しかし、諸葛瑾は、「恪は一時栄華を得るが、結局家を滅ぼすだろう」と言う。諸葛瑾の死後、全て予想通りとなる。(人格的欠点を、的確に見抜いていた。)

・虞翻(呉の名士)が孫権の逆鱗に触れ、遠方に流されたとき、諸葛瑾は度々虞翻を弁護。虞翻は知人に手紙を送り、諸葛瑾を称賛する。「仁に厚く、天の摂理を体現している。」
・堂々とした風貌、思慮深さ、大きな度量を備え、多くの人々から敬意を受ける。(人格、人徳なら諸葛亮以上と思われる。)孫権は重要な事柄については、必ず諸葛瑾に相談する。


陳寿は諸葛瑾、歩隲(ほしつ)をまとめて評する。「人を受け入れる器量、模範となる行動をもって、当時有能な人物と見なされた。」




張昭 張紘 顧雍 駱統 諸葛恪


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