トップページ>三国志総合事典(正史)>人物事典-呉>
チョウコウ シコウ
呉の政治家、学者。孫策に仕えてのち、都への使者となり、そのまま曹操に留め置かれる。孫策の死後、曹操に孫家厚遇を進言する。その後江東に戻り、孫権を補佐し、秣陵(後の建業)への遷都を勧める。
・故郷に戻ってのち、茂才に推挙される。(茂才とは、官僚の候補枠。)その後、三公(司徒・司空・太尉)の役所に招聘されたが、あえて行かない。動乱を避け、江南(長江の南)に移住する。
・あるとき、孫策に仕官。校尉に任じられる。(校尉は軍を統率。張紘は、主に軍政を期待されたと思われる。)
・孫策が丹陽郡を討伐し、張紘も随行する。孫策は自ら、陣頭に立とうとする。張紘は諫言する。「総指揮官は、その元で作戦が立てられ、全軍が己を預けるところの者です。自ら軽はずみに先頭に立ち、小敵を相手にしてはいけません。」
・趙昱(広陵太守)により、孝廉に推挙される。(孝廉とは、官僚の候補枠。)
・陳琳(ちんりん)が張紘の詩才を称賛し、書簡を送って「私など及ばない」と評する。(陳琳は著名な詩人で、現代でも評価が高い。)
・書にも長け、あるとき孔融(代表的な名士の一人)に自筆の手紙を送る。孔融は返信し、感謝と称賛を並べる。
・当時孔融が都にいたが、張紘に敬意を払い、交流する。張紘はやがて、九江太守に任じられる。しかし病と称し、赴任せず。
・孫策が刺客に殺害され、弟の孫権が跡を継ぐ。曹操はそれに乗じ、江東進軍を考える。張紘は、曹操を制止する。「人の死に乗じるのは、古来より戒められるところです。また、上手くいかなかった場合、ただ大きな恨みを買うのみで、二度と友誼を結ぶことはできません。よって討伐は得策ではなく、むしろ恩義を施しておくべきです。」
・曹操はこれに従う。孫権に将軍位を与え、加えて、会稽郡の太守に任じる。(当時の孫権は呉郡に駐在。会稽太守を拝領したあとも、顧雍を次官として会稽に派遣し、自身は呉郡に留まる。)張紘も、曹操により、会稽東部都尉に任じられる。かくて、江南に戻り、孫権に仕える。
・あるとき、孫家の歴史を記したいと願い出る。孫権は完成した作品を読み、大いに満足する。(なお、張紘の文才は、張昭以上という評判。)
・孫権の日々の態度に誤りがあれば、いつもそれとなく諌める。(張昭と好対照。)
・広陵太守の趙昱(ちょういく)が、笮融(さくゆう)に謀殺される。(趙昱は儒家の名士で、かつて張紘を孝廉に推挙した。)張紘は会稽郡に到着すると、趙昱の故郷琅邪(ろうや)に役人を遣わし、趙昱を祀らせる。更に、趙昱の一族を探し出す。
・その後、琅邪国(徐州)の相・臧宣(ぞうせん)に手紙を送り、彼等の面倒を見て欲しいと頼み、臧宣はこれに応える。(臧宣は臧覇(字(あざな)は宣高)の誤記と思われる。)孫権もまた、張紘の行為を称賛。
・孫権が自ら軽騎兵を率い、先頭に立とうとする。張紘は諫言する。「そもそも武器は不吉な道具、戦争は危険な物事。敵を軽んじてはいけません。また、敵将を倒すのは部将のすることで、総指揮官の仕事ではありません。ご主君はなるべく勇猛さを抑えられ、覇者の計略を内にお持ちになってください。」(以前、孫策に対しても、同様に諫めている。)
・合肥城攻略の策を献じる。「古来より、城を包囲する際は、わざと一方を開けておくものです。敵はそれによって、心に惑いが生じます。我が軍は今、城を厳しく包囲していますが、敵はかえって心を一つにします。ここはあえて包囲をゆるめ、敵の出方を見るのがよいでしょう。」(戦術レベルでの進言。張紘は軍政だけでなく、細かい作戦立案にも関わっていた。)しかし反対者がおり、実行はされず。孫権はその後、合肥から撤退。
・翌年、孫権はまた(合肥への)出兵を考える。張紘は、これに反対する。「古来、天意を得た帝王は文徳だけでなく、軍事行動をもって勲功を明らかにしました。しかしながら、軍は時宜を得ることにより、初めて威を振るうことができます。今はしばらく兵を休ませ、農耕を盛んにし、人材起用に心を尽くされ、施政においては寛大さ、恩恵を重視なさってください。そのあとで、天命を奉じて征伐を行えば、自ずと平定は上手くいくでしょう。」(以上、儒家らしい発言。)孫権はこれに従う。
・病身になると、孫権に手紙を残すことを考える。手紙には、君主の心得を詳述。それを子(張靖)に預ける。
・まず、こう記す。「王たる者は皆、徳治を行い、古(いにしえ)の理想の時代を現出させたいと願うものです。しかし、実際の政治は、その多くが挫折します。これは、いい臣下がいないからではなく、また、政治を理解していないからでもなく、ただ名臣を活用できないためなのです。」
・続いて、こう記す。「人はそもそも、同調する者を好みます。『善に従うのは坂を登るが如し、悪に従うのは崩れるが如し』という言葉があります。君主は得てして、真の忠臣より同調者を好み、表立ての忠義に惑わされ、彼等に恩愛を感じます。しかし聡明な君主は、常に貪欲に賢者を求め、とことん諫言を望み、正道のためには(目先の)恩愛を二の次にします。君主が不公平な恩寵を行わなければ、臣下もその僥倖を期待(して迎合)することもなくなります。」
・最後に、こう締めくくる。「ご主君は以上を心に留め置かれ、且つ、いつも大きな仁愛を示されますよう。」
・やがて死去(六十歳)。孫権は手紙を読み、涙を流す。
・文才を振るい、十余篇の作品を残したという。
・陳寿は張紘を評して言う。「その述べるところは筋が通り、その意図するところは道に適合し、一世の逸材であった。孫策からの礼遇が張昭に次いだのも、確かな理由があってのことである。」
張昭 諸葛瑾 顧雍 駱統
トップページ>三国志総合事典(正史)>人物事典-呉>
チョウコウ シコウ
張紘 子綱
~卓越した教養・人格~
呉の政治家、学者。孫策に仕えてのち、都への使者となり、そのまま曹操に留め置かれる。孫策の死後、曹操に孫家厚遇を進言する。その後江東に戻り、孫権を補佐し、秣陵(後の建業)への遷都を勧める。
孫策に仕える
・徐州の広陵郡出身。都(洛陽)に行き、学問を学ぶ。諸々の経書(儒学の書)を修める。・故郷に戻ってのち、茂才に推挙される。(茂才とは、官僚の候補枠。)その後、三公(司徒・司空・太尉)の役所に招聘されたが、あえて行かない。動乱を避け、江南(長江の南)に移住する。
・あるとき、孫策に仕官。校尉に任じられる。(校尉は軍を統率。張紘は、主に軍政を期待されたと思われる。)
・孫策が丹陽郡を討伐し、張紘も随行する。孫策は自ら、陣頭に立とうとする。張紘は諫言する。「総指揮官は、その元で作戦が立てられ、全軍が己を預けるところの者です。自ら軽はずみに先頭に立ち、小敵を相手にしてはいけません。」
・趙昱(広陵太守)により、孝廉に推挙される。(孝廉とは、官僚の候補枠。)
・陳琳(ちんりん)が張紘の詩才を称賛し、書簡を送って「私など及ばない」と評する。(陳琳は著名な詩人で、現代でも評価が高い。)
・書にも長け、あるとき孔融(代表的な名士の一人)に自筆の手紙を送る。孔融は返信し、感謝と称賛を並べる。
上京と帰還
・朝廷に派遣された際、曹操に留め置かれる。その後、侍御史(監察官)に任じられる。
・当時孔融が都にいたが、張紘に敬意を払い、交流する。張紘はやがて、九江太守に任じられる。しかし病と称し、赴任せず。
・孫策が刺客に殺害され、弟の孫権が跡を継ぐ。曹操はそれに乗じ、江東進軍を考える。張紘は、曹操を制止する。「人の死に乗じるのは、古来より戒められるところです。また、上手くいかなかった場合、ただ大きな恨みを買うのみで、二度と友誼を結ぶことはできません。よって討伐は得策ではなく、むしろ恩義を施しておくべきです。」
・曹操はこれに従う。孫権に将軍位を与え、加えて、会稽郡の太守に任じる。(当時の孫権は呉郡に駐在。会稽太守を拝領したあとも、顧雍を次官として会稽に派遣し、自身は呉郡に留まる。)張紘も、曹操により、会稽東部都尉に任じられる。かくて、江南に戻り、孫権に仕える。
諸々
・張昭共々、方策の記録、上奏文の起草、外交文書の作成に当たる。・あるとき、孫家の歴史を記したいと願い出る。孫権は完成した作品を読み、大いに満足する。(なお、張紘の文才は、張昭以上という評判。)
・孫権の日々の態度に誤りがあれば、いつもそれとなく諌める。(張昭と好対照。)
・広陵太守の趙昱(ちょういく)が、笮融(さくゆう)に謀殺される。(趙昱は儒家の名士で、かつて張紘を孝廉に推挙した。)張紘は会稽郡に到着すると、趙昱の故郷琅邪(ろうや)に役人を遣わし、趙昱を祀らせる。更に、趙昱の一族を探し出す。
・その後、琅邪国(徐州)の相・臧宣(ぞうせん)に手紙を送り、彼等の面倒を見て欲しいと頼み、臧宣はこれに応える。(臧宣は臧覇(字(あざな)は宣高)の誤記と思われる。)孫権もまた、張紘の行為を称賛。
合肥戦
・赤壁の戦いのあと、孫権が合肥(がっぴ)に進軍し、張紘も随行する。(合肥は曹操の領地。このときの守将は不明。)
・孫権が自ら軽騎兵を率い、先頭に立とうとする。張紘は諫言する。「そもそも武器は不吉な道具、戦争は危険な物事。敵を軽んじてはいけません。また、敵将を倒すのは部将のすることで、総指揮官の仕事ではありません。ご主君はなるべく勇猛さを抑えられ、覇者の計略を内にお持ちになってください。」(以前、孫策に対しても、同様に諫めている。)
・合肥城攻略の策を献じる。「古来より、城を包囲する際は、わざと一方を開けておくものです。敵はそれによって、心に惑いが生じます。我が軍は今、城を厳しく包囲していますが、敵はかえって心を一つにします。ここはあえて包囲をゆるめ、敵の出方を見るのがよいでしょう。」(戦術レベルでの進言。張紘は軍政だけでなく、細かい作戦立案にも関わっていた。)しかし反対者がおり、実行はされず。孫権はその後、合肥から撤退。
・翌年、孫権はまた(合肥への)出兵を考える。張紘は、これに反対する。「古来、天意を得た帝王は文徳だけでなく、軍事行動をもって勲功を明らかにしました。しかしながら、軍は時宜を得ることにより、初めて威を振るうことができます。今はしばらく兵を休ませ、農耕を盛んにし、人材起用に心を尽くされ、施政においては寛大さ、恩恵を重視なさってください。そのあとで、天命を奉じて征伐を行えば、自ずと平定は上手くいくでしょう。」(以上、儒家らしい発言。)孫権はこれに従う。
遷都案・君主の心得
・孫権に進言し、秣陵県(丹陽郡)に移ることを勧める。「かの地は丘陵が連なり、王者の気が充満しています。」孫権はこれに従い、本拠地を秣陵に移し、翌年建業と改名する。(この建業は、後に呉王朝の国都となる。)
・病身になると、孫権に手紙を残すことを考える。手紙には、君主の心得を詳述。それを子(張靖)に預ける。
・まず、こう記す。「王たる者は皆、徳治を行い、古(いにしえ)の理想の時代を現出させたいと願うものです。しかし、実際の政治は、その多くが挫折します。これは、いい臣下がいないからではなく、また、政治を理解していないからでもなく、ただ名臣を活用できないためなのです。」
・続いて、こう記す。「人はそもそも、同調する者を好みます。『善に従うのは坂を登るが如し、悪に従うのは崩れるが如し』という言葉があります。君主は得てして、真の忠臣より同調者を好み、表立ての忠義に惑わされ、彼等に恩愛を感じます。しかし聡明な君主は、常に貪欲に賢者を求め、とことん諫言を望み、正道のためには(目先の)恩愛を二の次にします。君主が不公平な恩寵を行わなければ、臣下もその僥倖を期待(して迎合)することもなくなります。」
・最後に、こう締めくくる。「ご主君は以上を心に留め置かれ、且つ、いつも大きな仁愛を示されますよう。」
・やがて死去(六十歳)。孫権は手紙を読み、涙を流す。
・文才を振るい、十余篇の作品を残したという。
・陳寿は張紘を評して言う。「その述べるところは筋が通り、その意図するところは道に適合し、一世の逸材であった。孫策からの礼遇が張昭に次いだのも、確かな理由があってのことである。」