トップページ三国志総合事典(正史)人物事典-呉

シュカン キュウボク
朱桓 休穆
  
~気位、実力兼備の将~

 呉の将。初め、地方の県の長となり、善政に努める。後に、濡須(じゅしゅ)を守り、魏の曹仁を撃破する。



功を重ねる
・揚州の呉郡出身。家は名家。孫権の側近となる。
・余姚県(会稽郡)で長を務める。疫病が流行り、糧食も不足する。朱桓は医薬品を手配し、また、炊き出しを度々行う。官民は大いに喜ぶ。
・二つの郡で山越(山地の異民族の総称)を討伐し、次々撃破する。

・濡須の守将となる。(濡須とは、長江北の河口の一帯。)
・曹仁(魏の将)が濡須に進軍し、しきりに陽動部隊を出す。朱桓が兵をそちらに分けると、曹仁は朱桓の本拠に進軍。
・朱桓の兵は五千、敵は大軍。朱桓は言う。「兵の数は問題ではなく、将の能力が重要だ。我の用兵が曹仁に劣ると思うのか。しかも、ここは平地ではなく、我々には強固な城がある。敵は遠征で疲れており、我々は精鋭で準備も万端だ。負ける道理はない。」(実際は、曹仁は屈指の名将だったが、水戦は不慣れ。朱桓は陸戦、水戦いずれにも長ける。)朱桓はその後、わざと隙を見せて敵を誘い、全て撃破する。

・陸遜に従い、曹休(魏の将)と対峙。伏兵策を進言したが、陸遜の作戦は既に決定済み。朱桓は全琮(ぜんそう)と協力し、曹休を撃破する。




武名と性格
・魏の廬江郡の主簿が、偽りの降伏をし、呼応を申し出る。(当時廬江は南北に分かれ、北部は魏領、南部は呉領。首都はそれぞれ、六安(りくあん)県、皖(かん)県。)孫権は(取り合えず)承知し、軍を向かわせる。朱桓もこれに参加。
・呉軍は(六安県に)到着したが、ほどなく偽りに気付き、撤退を開始。朱桓が、軍の殿(しんがり)を務める。魏軍は、呉軍を追撃しようとしたが、朱桓を恐れて諦める。(呉将の中でも、武名が際立っていたことが分かる。)

・惜しみなく私財を散じ、義によって人と交わる。一度会った者は何十年も忘れない。配下には一万の兵がいたが、朱桓は彼等の家族に至るまで、全て顔と名前を頭に入れる。多くの人々から慕われる。

・気位が高く、人の指図を受けることを恥辱と感じる。(関羽を思わせる。下の者に目をかける点も同じ。)あるとき全琮(総司令官)が奇襲策を決めると、朱桓はこれが意に沿わず、あとで全琮の元に赴いて詰問。全琮は、「胡綜(こそう)が提案した」と言う。朱桓は胡綜を殺害しようとし、朱桓の側近が胡綜を逃がす。朱桓は自ら側近を殺害し、それを諫めた副官も殺害する。(恐らく、裏切られたように感じた。)その後、気が狂ったと称し、一時引退する。


・陳寿は、朱然、朱桓をまとめて評する。「勇と烈をもって名を馳せた。」
・陳寿はまた、呂範、朱桓をこう評する。「傲慢さや偏狭さもあった。」




陸遜 朱然 全琮


トップページ三国志総合事典(正史)人物事典-呉