トップページ三国志総合事典(正史)人物事典-呉

テイホウ ショウエン
丁奉 承淵
  
~機略と武勇の将~

 呉の将。初期は、一部隊を率いて活躍し、徐々に成り上がる。朝廷の争いにも絡み、大将軍に任じられる。



戦功を重ねる
・揚州の廬江郡出身。家系などは不明。
・呉軍に入隊する。驍勇をもって知られ、小部隊の将となる。甘寧、陸遜、潘璋らに従い、度々敵将を討ち取り、軍旗を奪い取る。
・孫亮の時代、将軍位を与えられる。

・魏軍が東興(とうこう)に進軍し、諸葛恪がこれを防ぐ。丁奉は、諸葛恪の指揮下に入り、作戦に参与。(兵三千。)諸将が諸葛恪に述べる。「将軍が自ら大軍で向かった以上、敵は逃走するでしょう。」丁奉は言う。「敵の行動を当てにしてはなりません。味方の実力を当てにすべきです。」(丁奉は叩き上げの武将。甘さがない。)
・その後、独断で行軍速度を速める。敵の前衛は雪の中、宴会をして警戒を怠る。丁奉は兵に鎧を脱がせ、敵陣に突撃をかけ、大いにこれを破る。


・魏将の文欽が呉に降る。丁奉は魏の追撃軍を迎撃し、文欽を救援する。自ら矛を手にし、手勢を駆り立て、敵陣に突入。数百人を討ち取る。後に魏の諸葛誕が反乱し、呉は救援の軍を派遣する。丁奉は突撃隊長となり、またも戦功を挙げる。(正史の丁奉は、呉屈指の勇将。)




朝廷で画策
・呉の朝廷では、孫綝(そんりん)が横暴を振るう。一族の孫休は誅殺を企てる。部下の張布が進言。「丁奉は事務は不得手ですが、策略は得意です。彼に相談するのがよいです。」(恐らく、現場で磨かれた機略。この点は、呂蒙を思わせる。)
・孫休はこれを聞き、丁奉を呼ぶ。丁奉は、孫休に献策する。「孫綝は人脈が多く、政略で倒すのは困難です。会合に招き、伏兵に討たせましょう。」孫休はこれに従い、孫綝殺害に成功する。
孫休の推薦により、大将軍に任じられる。
・合肥攻撃に参加。敵将石苞に、虚偽の手紙を送る。石苞は味方から疑惑を持たれ、本国に召還されて罷免となる。

・孫皓(そんこう)を擁立する。しばらくのち、廃立を企てる。(暴君と化し、制御不能となったため。)しかし、隙がなかったという。
・穀陽県(晋の領地)から略奪を試みる。(穀陽県は、徐州沛国に所属。)しかし、敵は事前に察知し、直ちに物資を集めて避難。


・位が上がるにつれ傲慢になり、周囲から疎まれたという。(この点、同じく叩き上げの呂蒙と異なる。)
陳寿は丁奉ら12人の将をまとめて評する。「江表の虎臣。孫氏は彼等を用いたから、東南の地を制圧できた。」




諸葛恪 呂蒙


トップページ三国志総合事典(正史)人物事典-呉