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チンリン コウショウ
陳琳 孔璋
  
~時代屈指の文士~

 袁紹配下の官僚。最初何進に仕え、諫言を行う。後に袁紹に仕え、対曹操の檄文を書く。曹操に帰服後、文才をもって厚遇される。



何進に進言
・徐州の広陵郡出身。
・大将軍何進の主簿となる。何進は外戚(皇后の一族)でもあり、しばしば宦官と対立。


・何進は宦官誅滅を図るも、何太后(何進の妹)が反対。何進は太后に圧力をかけるため、地方の諸将(董卓ら)を呼ぼうとする(袁紹が提案)。陳琳は、何進に諫言する。

・まず、こう言う。「そもそも、いかなる物事を行うにも、最も適した方法があります。まして、国家の重大事ともなれば、いい加減な詐術では代替できません。現在将軍(何進)には大権があり、やるなら自ら、雷鳴が響くが如く、速やかに行うべきです。(それが、最も的確な方法です。)例え、(やり方が)道理から外れていても、(目的が)道義に沿っていれば、天も人も納得するものです。」
・続いて、こう言う。「各地から豪傑を集めますと、その中で最も強い者が、新たに(朝廷における)指導者となるでしょう。こちらからすれば、自らの武器を逆さにして、相手に柄を持たせてやるようなものです。」

・しかし、何進はこの進言に従わない。何進はやがて、宦官に殺害され、その後董卓(辺境出身の武将)が朝廷を支配する。




袁紹時代
・冀州に避難する。袁紹に仕え、文章の起草を担当。
・袁紹は、東郡太守の臧洪(ぞうこう)を討伐する。陳琳は臧洪と同郷で、親交あり。陳琳は、袁紹の指令を受け、手紙を書いて降伏を勧める。臧洪は返書し、降伏はできないと述べる。(袁紹はその後、臧洪を討ち滅ぼす。)


・やがて、袁紹は曹操と敵対する。袁紹は、事前に檄文を発することとする。陳琳は、檄文の起草を任される。

・最初の文は、「そもそも、明君は危険を予測し、変化の理に通じ、忠臣は難局を考慮し、臨機の措置を講ずる。私は、(正道とは)そういうものだと聞いている。」その後、それらの事例を複数挙げる。
・続いて、曹操が正道から外れた人物であることを、長々と論述。まず、その出自を貶め、次に、曹操を「短絡的な乱暴者」と批判。その失敗や殺戮に関してのみ、徹底して取り上げる。続いて、「曹操は朝政を専断し、民を害している」と述べる。
・一方、「袁紹が曹操を助けた」こと、「曹操がその度に増長した」ことを随所に述べる。(なお、袁紹が曹操のボス的立場だったのは、ある程度事実。)


・袁紹は大軍をまとめ、曹操と対陣。徐々に圧迫し、曹操を追い込む。しかし、結局敗れ、その後病死する。跡を継いだ袁尚(三子)は、袁譚(長子)と対立。陳琳は、袁尚の配下に置かれる。
・袁譚が曹操と連合すると、袁尚は曹操への降伏を考える。陳琳はその使者となったが、受け入れられず。




曹操時代
・曹操は鄴(ぎょう)県を陥落させる。(鄴は袁氏の本拠地。)陳琳は曹操に謁見し、曹操は檄文に言及する。「悪口を書くにしても、私だけに留めておくべきだった。私の祖父、父まで貶めることはなかった。」しかし、陳琳の才能を重んじ、咎めることはせず。

・阮瑀共々、司空府の軍謀祭主に任じられ、記室(書記官)をまとめる。(司空は民政大臣。曹操が在任。)阮瑀共々、軍事、国事に関する文章を多数起草。
・あるとき、曹操は頭痛に悩まされ、横になりながら陳琳の文章を読む。その出来栄えを前に、途端に起き上がり、こう言う。「こいつは私の頭痛を治したぞ」。
・阮瑀共々、(曹操の府の)門下督となる。(当時の曹操は、恐らく丞相。門下督は府内の監督役。)


・曹丕、曹植、孔融、張昭、王朗らと交流あり。
・曹丕は呉質に送った手紙の中で、「陳琳の文章は雄健だが、いささか繁雑である」と述べている。

・陳琳の伝記は、王粲伝に付属する形で存在する。
陳寿は王粲、徐幹、陳琳ら12人をまとめて評する。「文帝(曹丕)、陳王(曹植)は公子の尊貴さをもって、広く文学を愛好し、その元には同好の士が集まり、文才ある人物が並んで出現した。」




田豊 郭図 審配 逢紀 曹植 王粲


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