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カイリョウ シジュウ
蒯良 子柔
  
~文治派の名士~

 劉表配下の官僚。指針を問われたとき、民政の心得を説く。



・荊州の南郡出身。
・劉表が荊州刺史となり、宜城県(南郡)に乗り込む。劉表はまず、蒯良、蒯越、蔡瑁の3人を招く。(州庁は南の漢寿県(武陵郡)に存在。劉表は赴任を急がず、まず州の有力者たちに相談。)なお、蒯良、蒯越の続柄関係は不明。


・劉表は3人が集まると、こう言う。「現在州内には不服住民が多い。兵が集まるかどうかも心配だ。どうすべきだろうか。」蒯良は、こう答える。「民が従わないとしたら、仁が不足しているのです。従っても治まらないとしたら、義が不足しているのです。仁と義を備えれば、民は自ずとまとまるでしょう。何故、挙兵と方策について問うのですか。」(仁は寛容さ、義はけじめという意味合いだろう。「三国志演義」の蒯良は過激な策士だが、正史の蒯良は正統派の儒家。)

・その後、蒯越が強硬策を述べる。劉表は蒯良の言を称賛しつつ、当面は蒯越の意見を採用。州内を平定し、襄陽県(荊州)に州庁を置く。その後の蒯良の待遇は不明。(恐らく内務に尽力。)


・劉表の死後、子の劉琮は曹操に帰順。荊州の官僚や将軍は、そのまま曹操の配下に入る。「晋陽秋」によると、蒯良は吏部尚書まで昇進している。(吏部尚書は、魏王朝の官職。「尚書台」(帝の秘書機関)の部署「吏部」の長官で、人事を担当する。)
・同じく「晋陽秋」によると、蒯良の孫娘は司馬炎の義理の妹。呉の皇族孫秀(晋に亡命した)に嫁いだという。




蒯越 蔡瑁 黄祖


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