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リゲン セイホウ
李厳 正方
  
~蜀屈指の才人~

 蜀の官僚、軍人。劉表・劉璋に任用され、その後劉備の配下に入る。郡太守となり、州の中部を統治し、反乱も鎮圧。諸葛亮にも信任されたが、あるとき輸送の遅れを誤魔化し、失脚させられる。



劉備に仕える
・荊州の南陽郡の出身。郡吏となり、高い評価を受ける。劉表の目にも止まり、郡県の官職を歴任。

・曹操が荊州に来る。李厳は、益州の劉璋の元に行き、成都(州の首都)の県令に任じられる。ここでも、高い評価を受ける。
・護軍に任じられ、綿竹に駐屯したが、劉備に帰服する。

・劉備が益州を制圧。李厳は、諸葛亮の元で、蜀科(刑法)の制定に関わる。(蜀科の制定者として名が記されるのは、諸葛亮、法正、李厳、劉巴、伊籍の5人。)




郡太守時代
犍為(けんい)郡の太守に任じられる。(益州中部の郡。)

・あるとき、反乱者数万人が郡に侵入し、李厳はこれと対する。李厳の手元には、五千の兵がいるのみ。しかし、改めて兵の徴用はせず、真っすぐに敵の本軍を攻撃。首謀者達を討ち取る。その結果、残党は四散し、再び民籍に戻る。
・越巂郡(隣の郡)で、高定(異民族)らが反乱する。李厳は軍を率いて救援し、全て敗走させる。

・劉備が白帝城で、病床に伏す。李厳は諸葛亮共々、白帝城に呼ばれる。劉備はこの両者に、今後のことを託す。(諸葛亮は荊州派閥の代表、李厳は(荊州出身だが)益州との繋がりが強い。劉備はバランスを考えた。)

・劉禅が即位してのち、李厳は諸葛亮に書簡を送り、王(爵位)になることを勧める。諸葛亮は拒否する。
・あるとき、陳震(蜀臣)が諸葛亮に言う。「李厳の故郷の人々は、『李厳は腹の中に鱗甲(りんこう)があり、うかつに近付けない』と言っています。」(恐らく、「本性を見せない」という意味。)




漢中赴任
・諸葛亮が北伐を計画する。李厳は、江州県(巴郡の首都)に駐在する。(配下に陳到ら。)常に手際よく政務を処理し、諸葛亮に称賛される。
・当時、新城郡(魏領)では、孟達(元蜀臣)が太守を務める。李厳は孟達に書簡を送り、味方に引き込む。(その後、孟達は作戦を誤り、司馬懿に敗北する。)


・驃騎将軍に任じられる。曹真(魏の将)が動きを見せると、漢中に移って防備を固める。(第一次北伐の前。)
・漢中の政務を取り仕切る。(諸葛亮の北伐の前準備。)後に、諸葛亮が漢中に行軍し、北伐の本営を置く。
・諸葛亮は以後、何度も北伐を行う。第一次~第三次、李厳の活躍は特に記されない。漢中にあって、留守を無難に統括していたと思われる。


・「李厳」から「李平」に改名する。(理由不詳。)




失脚
・諸葛亮が、第四次北伐に出発する。李厳は漢中にあって、兵站を一手に統括する。諸葛亮はこれに依拠し、司馬懿としばらく対峙を続ける。

・長雨が起こり、輸送が間に合わない。諸葛亮に使者を出し、その旨を報告。諸葛亮は了解し、撤退する。

・李厳は、不首尾を取り繕おうとし、策を弄する。まず周りに言う。「兵糧は足りている筈だが、何故撤退したのだろう。」その後劉禅に上表。「軍は撤退したのではなく、敵を誘導しているのです。」(これで、諸葛亮が口裏を合わせてくれれば、諸葛亮、李厳双方の面子が立つ。)
・しかし、諸葛亮は上表し、矛盾を説明。李厳は罷免され、梓潼(しとう)郡に強制移住となる。(諸葛亮は、公正にこだわる性格。)

・第五次北伐時、諸葛亮は陣中で病死。李厳は、「復帰の望みがなくなった」と考え、発病する。やがて死去。(李厳は、諸葛亮を盟友と見ていた。)


陳寿は李厳を評して言う。「才幹によって栄達した。」
・陳寿はまた、劉封、彭羕(ほうよう)、廖立、李厳、魏延、楊儀、劉琰(りゅうえん)をまとめて評する。「皆重んじられたが、自ら破滅を招いた。」




諸葛亮 黄権 劉巴 楊儀


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