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王莽は実際のところ、どのような思いで改革を行ったのか?当ページで考えてみます。
つまり、「建前と実質の一致」を志向していた。
漢人において、「名実一致」は、一つの理想とされる。(かの孔子も、「名」には「実」が伴うべきと説いた。)漢人は元来、実体があるものを好み、空虚な観念を嫌う。結果、建前の独り歩きを排そうとする。
実際は、漢人の多くはクレバーで、限界は絶えずわきまえる。実質が建前から離れていても、少し一致部分があれば、それを殊更に強調してみせる。そして「一致」を演出する。(例えば、「中華思想」(中国が世界の中心)というのがある。力が圧倒的でないときは、文化の卓越性を強調し、それで済ませる。)
しかし、王莽は、理想を追う精神主義者。あまり融通が利かない。権力欲は勿論強く、狡知にも長けていたが、方向性としては「徳」や「義」のために行動する。(それが、年少の頃からのアイデンティティで、宗教的信念。)
王莽はかつて、奴婢を殺害した息子を責め、自殺させている。政治的立場のためだけでなく、個人の信条としても、見逃す訳には行かなかった。
そのために、理念に則した制度を考え、現実をそこに組み入れようとした。
しかし、強引が過ぎ、その多くが瓦解した。
王莽はまた、貪欲な者への憎しみを、根底に持っていたと思われる。王莽は年少期、質素な日々を送る中、儒教的生活に意義を見出した。しかしその頃、同じ一族の者たちは、物欲にまみれていた。
王莽は権力を得てのち、物欲主義者たちを、力で制したいと思ったのだろう。
何にしても、王莽は、「暴政」を行うタイプではなかった。基本的に庶民を重んじ、調和、安寧のある世を目指していた。その点は、疑う必要はないだろう。
王莽は基本的に、高い倫理観念を有する。仁心自体は、どれだけ持っていたか分からないが、信条のために徳治を志向する。権力闘争を除けば、常に、行い正しい儒家であろうとした。
しかし、独善的であれば、名君にはなり得ない。
しかし、後世の儒家においては、時に理念が先行する。元帝(前漢後期の皇帝)がそうであったし、王莽は更に、その傾向が強かった。
孔子の時代ののち、儒教は次第に、政治と密接化する。しばしば、経書(公式の儒学書)の解釈を元に、政治上の決定が行われる。その中で、儒教の理念・規範は、言語的、周到に構築された。
儒者たちは、多くの場合、現在の政治に合った解釈を模索。上手く妥協点を見つける。しかし、理想主義に偏っている場合は、言語的世界に囚われる。当然、どこかで、現実との間に乖離が生じる。(言語のみをもって、物事を捉え切ることは、本来できない。)これは、孔子以後の儒教に内在する、本質的問題だろう。
王莽は日々、真剣に儒学を学んだ。その中で、自ずと言語性が発達した筈。そして、体系的に世界観を築き、それを実現させようとした。(そのために、様々な制度・政策を作り出したが、これも言語的能力による。)しかしそれは、端から危うい試みだった。
例えば、豪族の抑制は、時代の流れに沿っていた。また、経済政策の多くは、武帝以来定番のもの。(アレンジを追加したが、根本部分は同じ。)事を急がず、こだわりも捨てれば、上手くいくことはあり得た筈。
瓦解の原因は、他に、「希望的観測」にあると思われる。王莽は得てして、成功の可能性のみ考え、悪い結果への予防を怠った。そして、個々の破綻が広がり、全体が共倒れとなった。
もし王莽にいい補佐がいて、且つ、王莽が忠言をよく聞く性格だったら、結果はまた違っていたかも知れない。
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劉邦の活躍 ~漢王朝開始~
文帝と景帝 ~変革期~
武帝登場 ~最盛期~
派閥抗争 ~騒乱期~
王莽の時代 ~「新」王朝成立~
王莽の人格性 ~善人か悪人か~
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王莽の人格性 ~善人か悪人か~
王莽は実際のところ、どのような思いで改革を行ったのか?当ページで考えてみます。
名実一致の問題
王莽の改革の根底には、「名実一致」という考えがある。つまり、「建前と実質の一致」を志向していた。
漢人において、「名実一致」は、一つの理想とされる。(かの孔子も、「名」には「実」が伴うべきと説いた。)漢人は元来、実体があるものを好み、空虚な観念を嫌う。結果、建前の独り歩きを排そうとする。
実際は、漢人の多くはクレバーで、限界は絶えずわきまえる。実質が建前から離れていても、少し一致部分があれば、それを殊更に強調してみせる。そして「一致」を演出する。(例えば、「中華思想」(中国が世界の中心)というのがある。力が圧倒的でないときは、文化の卓越性を強調し、それで済ませる。)
しかし、王莽は、理想を追う精神主義者。あまり融通が利かない。権力欲は勿論強く、狡知にも長けていたが、方向性としては「徳」や「義」のために行動する。(それが、年少の頃からのアイデンティティで、宗教的信念。)
王莽はかつて、奴婢を殺害した息子を責め、自殺させている。政治的立場のためだけでなく、個人の信条としても、見逃す訳には行かなかった。
王莽と政治
王莽はまず、確固とした理念を抱き、現実をそれに近付けることを欲する。(理念は名と一体。)そのために、理念に則した制度を考え、現実をそこに組み入れようとした。
しかし、強引が過ぎ、その多くが瓦解した。
王莽はまた、貪欲な者への憎しみを、根底に持っていたと思われる。王莽は年少期、質素な日々を送る中、儒教的生活に意義を見出した。しかしその頃、同じ一族の者たちは、物欲にまみれていた。
王莽は権力を得てのち、物欲主義者たちを、力で制したいと思ったのだろう。
何にしても、王莽は、「暴政」を行うタイプではなかった。基本的に庶民を重んじ、調和、安寧のある世を目指していた。その点は、疑う必要はないだろう。
王莽は基本的に、高い倫理観念を有する。仁心自体は、どれだけ持っていたか分からないが、信条のために徳治を志向する。権力闘争を除けば、常に、行い正しい儒家であろうとした。
しかし、独善的であれば、名君にはなり得ない。
儒教の特質
本来の儒教(孔子の教え)は、内省を基本とし、そこから理念を作っていく。孔子は常に、地に根差して思索し、現実との関わりを考えた。しかし、後世の儒家においては、時に理念が先行する。元帝(前漢後期の皇帝)がそうであったし、王莽は更に、その傾向が強かった。
孔子の時代ののち、儒教は次第に、政治と密接化する。しばしば、経書(公式の儒学書)の解釈を元に、政治上の決定が行われる。その中で、儒教の理念・規範は、言語的、周到に構築された。
儒者たちは、多くの場合、現在の政治に合った解釈を模索。上手く妥協点を見つける。しかし、理想主義に偏っている場合は、言語的世界に囚われる。当然、どこかで、現実との間に乖離が生じる。(言語のみをもって、物事を捉え切ることは、本来できない。)これは、孔子以後の儒教に内在する、本質的問題だろう。
王莽は日々、真剣に儒学を学んだ。その中で、自ずと言語性が発達した筈。そして、体系的に世界観を築き、それを実現させようとした。(そのために、様々な制度・政策を作り出したが、これも言語的能力による。)しかしそれは、端から危うい試みだった。
王莽と政治2
王莽の諸政策は、一概に悪手とは言えない。その多くは、成功の可能性がなかった訳ではない。例えば、豪族の抑制は、時代の流れに沿っていた。また、経済政策の多くは、武帝以来定番のもの。(アレンジを追加したが、根本部分は同じ。)事を急がず、こだわりも捨てれば、上手くいくことはあり得た筈。
瓦解の原因は、他に、「希望的観測」にあると思われる。王莽は得てして、成功の可能性のみ考え、悪い結果への予防を怠った。そして、個々の破綻が広がり、全体が共倒れとなった。
もし王莽にいい補佐がいて、且つ、王莽が忠言をよく聞く性格だったら、結果はまた違っていたかも知れない。
劉邦の活躍 ~漢王朝開始~