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蜀2


名将姜維
 姜維は蜀の名将。涼州の豪族出身で、学問の素養も持つ。

 劉禅の時代、姜維は、北の国境に駐屯。度々、魏への北伐を実行する。目的は涼州を制圧し、有利な形勢を築くため。(小国の蜀は、何か打開策が必要だった。)姜維は涼州の情勢に詳しく、それを元に画策。
 姜維は、兵の数で劣りながら、互角以上に攻防する。軍略、戦術共に長けていた。しかし、決定的な勝利は得られず、次第に泥沼化する。

 姜維はそれでも諦めず、強引に北伐を続け、国力は消耗する。蜀の滅亡は、姜維の行動が要因の一つとされる。
 しかし、姜維が長年、国境を守り続けていたのも事実。もし姜維の存在がなければ、蜀はもっと早く、魏に付け込まれていたかも知れない。




馬良と馬謖
 馬良の経歴。荊州の従事→左将軍府の掾(えん)→蜀王朝の侍中。(従事とは補佐官。侍中とは政治顧問。)
 馬良は出仕以来、常に劉備の直属の部下。見識と実務能力をもって、絶えず国政に尽力した。加えて、名士として、政権の拍付けに一役買っていたと思われる。


 馬謖(ばしょく)の経歴。荊州の従事→綿竹の県令→成都の県令→越巂(えつすい)太守→丞相府の参軍。
 馬謖はまず、地方長官を歴任し、各地の実情に習熟する。その後諸葛亮を補佐し、共に国家戦略に当たった。




個性派たち
 蜀政権の中枢は、荊州出身者が多い。いずれも、儒学の素養を備え、政治への意欲を有している。(諸葛亮も荊州で学び、この特徴を持つが、出身は徐州。)
 彼等の中で、馬良、費禕は誠実。董和・董允親子は謹厳。この四者は、正統派の儒者に類する。馬謖も、才をひけらかす点を除けば、特に偏りはない。


 その一方で、個性の強いタイプも、何かと目立つ。荊州人は元来、知性、感情性が共に高いとされ、一癖ある人物も時々出てくる。
 例えば、楊儀、廖立、劉巴。いずれも、独自のプライドを持ち、時に偏屈さを見せた。(劉巴は道理を重んじるが、信念が強過ぎる面あり。)三者それぞれ、価値観は異なるが、気質はどこか共通する。
 また、李厳は能吏として知られたが、性格は一筋縄でいかない。劉禅の時代、諸葛亮に書簡を送り、王の爵位を得ることを推奨。何か、私的な思惑があったと思われる。
 一方、龐統、蔣琬は、大らかさを流儀とした。幅広く人望あり。彼等も、儒者としては風変わりで、中原の人士と一味違う。




黄皓の台頭
 蜀帝の劉禅は、次第に黄皓(宦官)を重用。朝政に関わらせる。
 一方、姜維は、黄皓を警戒していたという。姜維が北伐に没頭したのは、恐らく、内地に居場所がなかったせいもある。

 黄皓は、「三国志演義」では、横暴を振るって国を乱す。
 史実では、そこまでの権勢はなく、そう悪辣でもなかったとされるが。
 姜維との関連で考えると、やはり、蜀の命運に結構関わっている。




諸葛亮と族縁
 諸葛亮の妻は、蔡瑁の姪で、劉表の妻の姪でもある。(劉表は荊州の領主、蔡瑁はその重臣。)これは、恐らく、劉備が諸葛亮に目を付けた理由の一つ。

 劉備は元々、劉表に厚遇されていたが、基本的に外来者。しかし、諸葛亮を配下に加えれば、自ずと立場は強化される。

 劉備はその後、諸葛亮自身の非凡さを見抜き、深く信頼することとなる。劉備は当初、諸葛亮の個人的資質に関し、半信半疑だったかも知れない。しかし、諸葛亮は、想像を超える才知を持っていた。  




諸葛亮の子
 諸葛亮には、二人の子あり。長子は喬、次子は瞻(せん)。

 喬は養子で、元は諸葛瑾(諸葛亮の兄)の次子。人格者として知られたが、第二次北伐の頃、漢中で病死する。
 諸葛瞻は有名。朝廷で活躍後、綿竹(首都成都の北)を守備。鄧忠(魏の将)らを一度撃破したが、その後敗れて討死する。

 他に、懐という三子がいたとも言われる。
 あくまで説話上の人物で、実在は定かではない。




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