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揚州の出来事1 動乱


袁術到来
 当時、袁紹(名門貴族)が冀州に根を張る。袁紹は南方にも手を伸ばし、従兄の袁遺を揚州刺史に任じる。(州の首都は、九江郡寿春県。)
 一方、荊州北部には袁術が割拠し、袁紹と張り合っている。袁術は袁紹・袁遺の従弟である。この袁術が袁遺を討伐し、寿春から敗走させた。
 その後、袁術は陳瑀(ちんう)を起用し、新たな揚州刺史に任命。


 193年、袁術は袁紹を討つため、北方に進出する。しかし、曹操(当時袁紹と結託)に敗れ、九江郡に落ち延びる。
 その後、陳瑀(寿春県に駐在)を頼ったが、受け入れを拒否される。いつの間にか、版図が変わっていたらしい。

 袁術は、すぐには引き下がらない。巧みに言葉を弄し、陳瑀に揺さぶりをかける。その後、東の陰陵県(九江郡の首都でもある)で大軍を糾合。(陳瑀は心が迷っているため、これを妨害できず。)袁術はすぐさま、寿春城に進軍し、陳瑀は北に逃れ去った。
 袁術は以後、寿春を本拠地とする。実質、揚州刺史の代行。




袁術の流儀

揚州(袁術の時代)

牛渚(ぎゅうしょ)は土地名。他は全て県名。



 袁紹が周昂を九江太守とし、陰陵県に送り込む。袁術は孫賁(そんほん)に指令し、周昂を撃退させる。(孫賁は孫堅の甥。)その後、陳紀(丹陽出身)を九江太守に任命した。(九江と丹陽のパイプ役。)

 袁術はまた、孫策に指令し、廬江郡(太守陸康)を討伐させる。(郡の首都は舒(じょ)県。)孫策はやがて、城を陥落させ、陸康は逃亡中に病死する。(これにより、陸家、孫家の間に因縁が発生。)
 袁術は、子飼いの劉勲を起用し、新たな廬江太守とした。

 一方、呉景(孫策の叔父)を丹陽太守に任じる。(郡の首都は宛陵県。)本来の太守の周昕(しゅうきん)は、城を堅守する。呉景は、「抵抗をやめなければ、民衆も無差別に殺戮する」と告げる。周昕は、やむなく城を退去。
 呉景はこうして丹陽を手に入れたが、以後仁政に努め、広く人心を得た。


 袁術は、揚州三郡(九江、廬江、丹陽)で支配を確立。(前の二つは淮南(淮水と長江に囲まれた地)。丹陽は、長江の東に広がる。)この三郡は、揚州の中でも豊かな地域。袁術は自ずと、強大化した。

 袁術は基本的に、奔放な性格。元来が侠の人で、無法を好み、民心には鈍感。野心は強かったが、いい為政者とは言えない。また、袁紹(冀州に割拠)は現地の名家を懐柔したが、袁術のやり方は強引だった。陸康は、呉郡の名家出身だったが、袁術は問答無用で排除。
 華北は文化が発達しており、地方の名家の人脈・政治力は侮れない。華南はそうでもなく、袁術にとっては、やりやすい地域だった。

 袁術は他に、豫州の南部を支配。具体的には、汝南郡の中部以東、及び沛国の南部。(汝南郡は、袁術の出身地。)
 袁術は、後には徐州(領主劉備)に進軍し、広陵郡(州南部)を奪い取った。




孫策の躍進
 朝廷は、劉繇(りゅうよう)を揚州刺史に任じる。州庁は寿春にあったが、袁術がいるため行けない。代わりに、呉郡の曲阿県に滞在。この呉郡は、江東(長江の東)に位置している。
 劉繇は牛渚(ぎゅうしょ)に砦を築き、長江を盾に袁術に対抗する。(牛渚は県名ではなく、土地の名前。長江の東岸にあり、丹陽郡の西部に位置。)また、呉景(丹陽太守)は劉繇に圧迫され、袁術の元に帰る。
 劉繇は、名族出身の人格者だが、野心も結構有していた。

 袁術は呉景・孫賁に指令し、劉繇を討伐させたが、劉繇側の防備は固い。一年経っても勝てず。(なお、劉繇はこの頃、揚州牧に昇進。)


 袁術は孫策を抜擢し、江東に進軍させる。孫策は周瑜(旧友の英才)を配下に加え、敵の拠点を次々破る。孫策は行軍中、略奪を一切許さず、行く先々で民の支持を得る。また、張昭、張紘ら賢人を配下にし、存分に厚遇した。
 孫策はやがて、曲阿県に進出する。劉繇はほどなく敗れ、西方に遁走(195年)。その後、孫策は、江東での独立を目論む。呉郡を拠点とし、領地拡大の機会を窺った。

 一方、太史慈(元劉繇の部下)が丹陽に乗り込み、山越(山地の異民族の総称)を味方に付ける。太史慈は、丹陽太守を自称。郡の西の諸県を支配し、独立の姿勢を見せた。この太史慈は、武芸に長け、かつて孫策と一対一で勝負。
 丹陽郡には、他に祖郎という人物がおり、長らく不服従民を率いる。以前に孫策軍を襲撃し、苦しめたことがある。太史慈と並ぶ、丹陽の顔役。

 丹陽郡の本来の太守は、周尚(周瑜の叔父)。孫策は、周瑜を丹陽に送り込み、態勢の強化に当たらせる。孫策自身は、会稽郡の攻略に向かった。




王朗の抵抗
 会稽郡は、揚州南東の広い郡。首都は山陰県で、郡の北部に位置する。
 会稽太守は、王朗という人物。教養と徳を備え、民によく恩恵を与え、統治期間は四年に渡る。

 しかしあるとき、孫策の軍が会稽に進軍。王朗は軍人タイプではなく、配下の虞翻(ぐほん)は避難を勧める。王朗はそれに対し、「漢王朝から託された地を、放棄するわけにいかない」と返答。抵抗を決意する。
 小説「三国志演義」では、孫策に正義があるように描かれる。史実では、王朗は漢の忠臣で、儒家の名士。孫策の勢力を、異質な集団と見なし、排除しようとした。
 王朗は、県城の前の城塞(固陵城)に籠城。しばらくの間、堅守を続ける。しかし、結局敗北し、流浪生活に入った。


 一方、呉郡では、朱治が諸事をまとめる。(朱治は、孫策の重臣。郡の首都は呉県。)かつては、盛憲という人物が(呉郡の)太守だったが、許貢(地域の顔役)がこれを追放して太守を自称。朱治がその許貢を撃退した、という経緯。

 やがて、呉郡の豪族・厳白虎が、孫策に抵抗する。(既存の秩序を守るため、新興の孫策と対した。)孫策はこれを討伐し、敗走させた。


 孫策は王朗に代わり、会稽太守を称する。(196年。)実質の本拠地は、呉郡呉県。(なお、孫策の出生地は、呉郡富春県。孫堅も同じ。)孫策はまた、朱治を呉郡太守に任じる。朱治は以後、孫家の諌め役も務めた。
 孫策は後に、曹操(朝廷を支配)により、正式に会稽太守に任じられる。(なお、朱治は孫権の時代、正式に任命を受けた。)




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4、魏呉の攻防 5、最盛から衰退へ



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