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揚州の出来事2 袁術と孫策


帝位僭称

揚州(周瑜の赴任地)

牛渚(ぎゅうしょ)は土地名。他は全て県名。



 袁術は淮南にあって、日々勢威を振るう。(淮北一帯も支配圏。)
 197年、袁術は皇帝を名乗り、国号を「仲」とする。ひたすら栄華を求め、日々浪費を重ねる。軍費が不足すると、領民から搾取する。

 袁術は、江東にも手を伸ばす。袁胤(従弟)を丹陽郡に送り込み、新しい太守とする。(197年と思われる。)周尚、周瑜は、ひとまず丹陽から退去。
 周瑜らはその後、寿春に赴き、袁術と会見する。(孫策サイドは、袁術が帝を名乗ったあと、すぐに絶縁した訳ではない。)周瑜は袁術により、居巣(きょそう)県の長に任じられる。(居巣は、廬江郡に属する県。周瑜の故郷(廬江郡舒県)に近い。)


 孫策は次第に、袁術と反目。配下の徐琨(じょこん)を丹陽に進軍させ、袁胤に圧力をかける。(徐琨は孫堅の妹の子。孫策の従兄弟。)袁胤は撤退し、徐琨が新たな丹陽太守となる。
 やがて、呉景、孫賁が袁術を見限り、孫策の元に走る(197年)。孫策は呉景を丹陽太守に任命(徐琨の後任)。呉景は以前にも、丹陽太守を務めている。

 198年、周瑜が居巣を去り、孫策の元に戻る。周瑜は廬江郡出身で、郡の人々から信望あり。(周家は有力豪族として、地域の安定に尽力。周瑜は一族の当主。)
 孫策は、周瑜を牛渚に駐在させ、廬江との連携を強化する。(牛渚は長江東の一帯で、丹陽郡に属する。廬江は淮南に位置。)つまり、孫策は袁術に遠慮せず、淮南方面に版図を拡大した。
 後に、周瑜は春殻県(丹陽郡)の長となる。場所は牛渚の南西。




豫章の混乱
 州の南西部には、豫章郡がある。諸葛玄という人物が、豫章太守を務める。実際は、正式な太守ではなく、袁術に任命された。(後に劉表派に転じたともいわれる。)
 やがて、朝廷が朱皓(しゅこう)を正式な太守とし、豫章に送り込む。(朱皓は、名臣朱儁(しゅしゅん)の子。)
 このとき、劉繇が傘下の笮融(さくゆう)に命じ、朱皓に加勢させる。諸葛玄は、甥の諸葛亮共々、荊州に避難した。

 一方、笮融が反乱し、朱皓を殺害。劉繇は乍融を討伐し、撃破する。乍融は逃亡先で、住民に殺害される(197年)。笮融はかつて、徐州で独立勢力を保有。しかし、根っからの利己主義者で、結局は自滅した。
 その後、劉繇は病死する(197年)。孫策は後に、劉繇の棺を引き取り、遺族を厚遇する。


 朱皓死後、朝廷は、華歆を豫章太守に任じる。華歆は清廉、簡略を旨とし、統治は軌道に乗り、官民共に感謝した。華歆は、徳行で有名な人物だが、政治手腕も優れていた。




廬江の情勢
 袁術は帝位を僭称してのち、呂布(徐州)と開戦する。しかし、味方の裏切りで敗れる。その後、曹操(豫州)にも敗北。加えて、日照りが発生する。(いずれも197年。)

 この頃、廬江郡では、劉勲が半ば独立。更に、鄭宝(豪族)が遊侠生活を送り、幅を利かせている。(名族の周家とは、別系統の勢力。)
 この廬江郡は、本来、袁術の支配下。恐らく、袁術が落ち目になるに連れ、劉勲や豪族の力が強くなった。


 廬江には、他に、劉曄という人物あり。沈思黙考の賢人で、皇族の名士でもある。鄭宝は、劉曄の名を利用しようとし、しきりに協力を強要する。
 しかし、劉曄は宴席で自ら鄭宝を殺害し、手下達を服従させる。その後、共々劉勲に帰服した。(劉勲、劉曄は、後に曹操の配下に入る。)

 なお、劉曄は少年期にも、自ら殺人を行っている(13歳)。母の遺言により、「父の腹黒い側近」を手にかけた。劉曄は名族出身でありながら、どこか常軌を逸した部分がある。(荀彧(曹操の重臣)とは一味違う。)




袁術の没落
 袁術は帝を名乗って以来、虚栄心を増していく。次第に、自分の一族のことしか考えなくなる。元々は、義侠を重んじた人物だが、既に変貌していた。
 配下の雷薄・陳蘭は、堕落した袁術を見限り、潜山に立て籠もる。(潜山は、廬江郡の中部の山地。)一帯で仲間を増やし、独自に活動を開始した。
 袁術は、やがて行き詰まる。そして、雷薄らの軍営を頼るのだが、雷薄らは拒絶している。
 袁術は三日間、その地に滞在。雷薄らも、追い立てはしなかったらしい。


 当時、袁術の従兄・袁紹が河北におり、大勢力を有している。袁術は長らく、袁紹と敵対していたが、これを頼ることとする。書簡を送り、受け入れを願うと、袁紹はこれを許諾。袁紹は順風満帆で、気持ちに余裕あり。(そもそも、袁術が一方的に妬み、憎んでいた。袁紹には元々、強い敵意はなかったと思われる。)

 袁術はまず、寿春の宮殿を焼き払い、過去に決別。栄華と悪政の象徴は、儚く崩れ去る。
 袁術はその後、河北を目指し、行軍を開始する。劉備が曹操の指令を受け、徐州で袁術を阻む。袁術は兵糧が不足し、恐らく気力も尽きかけ、江亭という村(寿春近辺)に留まった。ほどなく憤死(199年)。その家族・残党は、廬江太守の劉勲を頼る。


 一方、曹操は厳象に指令し、寿春に向かわせる。この厳象は博識で知られ、武の素養もあったという。袁術の死後、揚州刺史に任じられ、寿春城に入った。




丹陽と豫章

揚州(太史慈の任地)



 199年、孫策が廬江に進軍する。劉勲を破り、袁術の残余勢力を吸収し、袁術の家族も保護した。
 孫策は、李術という人物を起用し、新しい廬江太守とする。

 孫策はまた、丹陽郡に進軍。太史慈、祖郎をそれぞれ討伐し、いずれも併呑する。その後、豫章郡に進軍し、太守の華歆は降伏(199年)。これをもって、江東平定が完了した。
 孫策は、豫章郡の南部を分離し、廬陵郡を作る。孫賁を豫章太守、孫輔(孫賁の弟)を廬陵太守に任命。
 少しのち、許貢(江東の有力者)が、朝廷宛ての書簡を作成。孫策への警戒を書き連ねた。書簡はたまたま、孫策の手に渡り、孫策は許貢を殺害する。


 この頃、荊州の牧は劉表。長沙郡(荊州)には、劉表の甥・劉磐が駐在している。劉磐は驍勇で知られ、度々豫章郡に侵犯した。
 200年、孫策は、太史慈を建昌都尉に任じる。建昌は県名で、豫章郡の北西部に位置。
 但し、太史慈は、海昬(かいこん)県(豫章郡)に駐在した。(建昌の北東に位置し、長江に近い。)ここを中心地とし、建昌・海昬含む六県を統括。(他の四県の詳細は不明。)

 太史慈は赴任後、領内を一枚岩にし、防備を万全にする。劉磐はその様子を知り、隙がないと判断し、以後二度と侵入せず。(また、太史慈は弓の腕が卓越しており、劉磐はこれも警戒したのかも知れない。)




報復
 孫策は江東を支配し、体制も一通り整う。江東は広大で、土地も豊か。そして、人材が揃っていた。(腹心は周瑜、呂範ら。)一見、順風満帆だったが、実際の情勢は不穏。
 孫策は優れた武将で、快男子でもあった。官民双方から、広く人気のあった人物。しかし、江東の人々は、劉繇・王朗の統治に不満はなかった。孫策は侵略者として、それを終わらせた。(華歆もまた、善政を敷いていたが、やむなく孫策に帰順。)江東の住人の一部は、よその地に逃亡している。


 孫策は江東征服に際し、略奪などはしなかったが、敵対分子を徹底して排除した。(既存の秩序を解体し、新たな体制を築こうとした。)郭嘉(曹操の参謀)はそれを指摘し、「孫策はいずれ、江東の者に殺害される」と予測。その言は、やがて的中する。
 200年(会稽制圧から四年後)、許貢の客分達が孫策を殺害。(許貢は、江東の顔役の一人。かつて孫策に殺害された。)

 その後、弟の孫権が家督を継ぎ、会稽太守の任に当たる。(この時点では、まだ正式な太守ではない。)




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