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バリョウ キジョウ
馬良 季常
  
~優秀で誠実な官僚~

 蜀の官僚。劉備に仕え、側で政事を補佐する。劉備が呉に遠征した際、異民族の元に赴き、味方に取り込む。その後、劉備と合流したが、戦死する。



劉備に仕官
・荊州の襄陽郡出身。儒家の家系。馬謖の兄。
・馬氏の五兄弟は秀才で知られ、中でも馬良が最も優れる。文才にも長けていたという。
・眉の一部が白く、「白眉」という愛称で呼ばれる。(現代でも、「白眉」は優秀さの代名詞として使われる。)

・劉備に召し出され、従事に任じられる。(劉備は当時荊州牧。)従事とは、州の長官(牧や刺史)に直属の補佐官。(馬謖も同じく、従事となる。)


・劉備が益州攻略に向かい、諸葛亮もあとから出発。馬良は荊州に留まる。雒(らく)城陥落後、馬良は諸葛亮に手紙を送り、祝辞を述べる。また、才能ある者を抜擢することと、適材適所を徹底することを勧める。
・馬良はこの手紙の中で、諸葛亮を「尊兄」と呼んでいる。義兄弟のような関係だったらしい。




益州時代
・劉備は益州を制圧する。馬良は、左将軍府の掾(えん)に任じられる。当時の左将軍は劉備。掾とは府の属官で、一つの部局をまとめる。

・劉備は呉と友好を結ぶため、馬良を孫権の元に派遣する。馬良はまず、諸葛亮に紹介文を頼み、諸葛亮は「試しに自分で書いてみよ」と言う。馬良は、その場で書き上げる。その一文「この者は、一時の華やかさはありませんが、持続する美しさを持っています。」その後、呉に赴き、孫権は敬愛をもって接する。


・劉備が蜀王朝を開く。馬良は、侍中に任じられる。侍中とは、政治顧問。帝に側仕えし、日々諮問に応える。(馬良は仕官して以来、ずっと劉備の直属の部下。)

・劉備が呉征伐に赴く。その際、五渓(荊州武陵郡)の異民族の援護を望む。馬良は劉備の指令を受け、五渓の異民族の元に赴く。そつなく手筈を整え、蜀軍は強大になる。(五渓の懐柔自体は、国策として前から行っていたのだろう。馬良もこれに関わっていたと思われる。)

・馬良はその後、劉備と合流。劉備は夷陵に進軍し、陸遜(呉の名将)と対峙する。数か月の間、勝負は付かない。やがて、劉備は陣容を変更したが、火攻めを受けて敗走。馬良は戦死する。劉備は馬良の子馬秉(ばへい)を取り立て、騎都尉に任じる。




逸話
・蜀臣向朗(しょうろう)は、馬良、馬謖を聖人扱いしていたという。(つまり、孔子の同類と見ていた。)蜀臣廖立(りょうりつ)はそれが気に食わず、二人の死後愚痴を言う。廖立は自由奔放な性格で、馬良らは正統派の儒家。相容れなかったのだろう。

・あるとき、諸葛亮は蒋琬(蜀の重臣)に手紙を送り、姜維という人物を推薦する。「姜維は時事によく対応し、着実に職務をこなし、思慮は非常に緻密です。彼の力量は李邵(りしょう)、馬良でも及びません。」(当時、李邵、馬良はいずれも死去)。このように諸葛亮は、新参の人物を売り込む際、馬良を引き合いに出している。(馬良の政事の才は、それだけ定評があった。)

陳寿は馬良を評して言う。「良実(誠実)な人物で、令士(立派な士)と称えられた。」




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