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ホウセイ コウチョク
法正 孝直
  
~策謀、政務に長けた能臣~

 蜀の参謀。劉璋に仕えてのち、劉備の腹心となる。漢中攻略の際、中心的な役割を果たす。また、「蜀科」(刑法)の制定に関わる。



劉備に付く
・司隷の右扶風郡出身。(南に益州漢中郡。)儒家官僚の家系。
・荒廃の故郷を棄て、同郷の孟達と共に南下。蜀(益州の中心地帯)に行き、州牧の劉璋を頼る。
・劉璋から、新都県(広漢郡)の令に任じられる。後に、軍議校尉となる。(軍議校尉とは、州牧直属の参謀と思われる。)

・張松共々、劉璋の器を見限る。
・張松の推薦により、劉備への使者となる。(劉備は当時、荊州牧。)帰還すると、劉璋に対し、劉備の武略を称揚する。(張松自身も、その後劉備に会う。)

・少しのち、再び劉備への使者となる。(このとき、心は既に劉備サイド。)劉備に対し、益州の内情を説明する。




益州攻略
・劉備は劉璋と会見後、北方に駐屯する。やがて反逆し、連勝を重ねる。法正は劉璋に手紙を書き、降伏を勧める。まず、こう述べる。「私が貴方様を裏切る形になったのは、本意ではありませんでした。ただ、疑われるのを恐れ、止むを得ず去ったのです。」(まずは建前。)

・続いて、こう述べる。「荊州と益州の間の道は、既に全て通じており、我々は容易に、荊州から援護を受けられます。兵糧が尽きることは、決してありません。一方、貴方様の領土は、日々削り取られており、その内に兵糧は尽きます。」(現実の情勢を、具体的に詳述。)

・最後に、こう述べる。「左将軍(劉備)は以前と同じように、貴方様に友好の感情を持っています。ここで(抗戦するという)計画を変更なさり、御一門を保持されるべきかと存じます。」


・劉備は成都(益州の首都)に迫る。劉璋の部下の鄭度(ていど)が、焦土作戦を主張する。劉備はこれを案じたが、法正は「劉璋はこの策を採用しません」と予測。劉璋は、やはり鄭度の策を拒否し、こう述べる。「そんなことは、統治者としてできない。」その後降伏。劉備は劉璋を公安郡(荊州)の太守に任じ、代わって益州牧となる。




重臣として活躍
・劉備は益州にあって、新人事を行う。許靖(元劉璋の重臣)を好まず、起用をためらう。(劉璋に忠義を尽くさず、降伏しようとしたため。)しかし法正は、許靖の名声の利用を進言。「彼には虚名があります。例え、実質が伴っていなくとも、天下の人々はそれを知りません。ここで彼を起用しなければ、天下の支持を失うでしょう。」劉備は同意する。

・なお、史家の孫盛は、これを批判する。「虚名を重視し、軽薄な者を用いれば、真の義士がないがしろにされる。」それに対し、裴松之はこう言う。「許靖には総じて過ちは少ない。(本来は正しい人物であり、)彼を重用することに問題はない。」


蜀郡の太守に任じられる。(劉璋の旧臣なので、情勢には詳しい。なお、郡の首都は成都。)同時に、謀臣として国策を練る。また、諸葛亮の元で蜀科(刑法)を制作する。(元来、官僚の家系出身。策謀だけでなく、政務にも長けていた。)

・郡の太守として、思いのままに振舞う。(倫理より感情を重視。儒家の家系出身でありながら、気質は儒家らしくない。)些細な恩にも必ず報いたが、些細な恨みにも必ず報復。自分を非難した者を数人殺害する。ある者が諸葛亮に言上する。「法正はやり過ぎです。」しかし、諸葛亮は法正の功を述べ、あえて大目に見る。




漢中の攻防
・曹操が漢中を併呑する。夏侯淵と張郃を残し、自身は帰還。法正は、劉備に漢中攻略を進言する。

・まず、こう述べる。「曹操は漢中を制圧後、余裕がありながら、蜀に侵攻しませんでした。国内に危急の用事があったのでしょう。もし今、我々が漢中を攻めても、彼はすぐには救援に来ないと思われます。また、夏侯淵と張郃は、国の将帥としては不足です。(大軍は動員できません。)我々が軍を総じて攻めれば、勝利を得られます。この機を逃してはいけません。」(こういう大規模な戦略は、周到な情報収集、綿密な計算の上で成り立つ。法正の優秀さがよく分かる。)

・更に、こう述べる。「漢中は要害の地です。これを手に入れ拠点とし、農業を重視して貯蓄すれば、国は大いに安定します。また、漢中を足がかりにすれば、東方と涼州の両方を狙えます。」

・劉備はこれに同意し、漢中に進軍する。法正も、劉備に随行する。劉備は定軍山に陣を置き、夏侯淵と対峙。あるとき、夏侯淵は陣を出て出撃する。法正はその様子を観望し、機を見て攻撃を進言する。(法正は、戦術にも長けていた。)劉備は黄忠に命じ、高所より急襲させる。黄忠軍は夏侯淵を討ち取り、劉備は漢中の制圧に成功する。




漢中防衛
・曹操が自ら漢中に進軍する。劉備は迎撃に向かい、陣営を築いて対峙。法正もこれに随行する。
・あるとき劉備は出撃し、劣勢になるも引かず。法正は劉備の前に立ち、劉備は「矢を避けよ」と言う。法正は答える。「ご主君ですら矢の中にいるのです。私が危険を冒すのは当たり前です。」劉備は退却を決める。
・劉備は漢中を守り抜く。その後、漢中王に就任。法正は、漢中国の尚書令に任じられる。(尚書令は、秘書機関の長。)護軍将軍も兼ねる。


・法正が死去してのち、劉備は呉遠征を強行し、結果は敗戦。諸葛亮は言う。「もし法正が生きていたら、主君を止めることができたのに。」(劉備は、諸葛亮(儒家の名士)とはある程度距離あり。法正の方が、波長は合ったのかも知れない。)

陳寿は法正を評して言う。「成功と失敗を見極め、奇策と算段を練ることに長けていた。しかし、徳によって称賛されることはなかった。魏で言えば、程昱や郭嘉に相当する。」




諸葛亮 龐統 馬良 馬謖


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