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ホウトウ シゲン
龐統 士元
  
~個性的な軍師~

 蜀の参謀。戦略と人物評定を好む。諸葛亮共々、劉備から重用を受ける。劉備の益州攻略に従い、腹心として活躍したが、途中で戦死する。



故郷時代
・荊州の南郡出身。家系は不詳だが、恐らく士大夫系。(なお、南郡の北部の生まれ。この地域は、後に襄陽郡と改称。)
・朴訥な雰囲気。(原文は「樸鈍」。)当初高い評判はなかったが、司馬徽(しばき)に評価され、次第に人々に認められる。(内には深慮を秘めており、司馬徽はそれを見抜いた。)
・龐徳公(荊州の名士)は、司馬徽を「水鏡」、諸葛亮を「臥龍」、そして、龐統を「鳳雛」と名付ける。(水鏡は、「世や人を映し出す」の意。)


郡の功曹に任じられる。(郡とは南郡を指す。)功曹は官吏の登用・評価に関わる地方官で、人事に広く関わる。(実質、太守の補佐官。)
・常々、人物批評を得意とする。その際、人を実質以上に評価。理由をこう述べる。「今は天下が乱れており、人々は心を荒廃させている。過度に称賛することで、初めて人々は発奮し、精進する道を選ぶ。(評価に近付こうとする。)私は一人でも多く、志ある者を世に出したいのだ。実際に大成する者が、その半数であっても、十分世の教化に役立つだろう。」

・この頃、呉臣周瑜が、南郡太守を務めている。(周瑜が龐統を功曹に任じたのか、周瑜就任前から功曹に在任していたのか、その辺は不明。)
・やがて、周瑜は病により死去。龐統は、その棺を呉まで運ぶ。




呉の人士への評
・龐統の名声は呉にも届いており、多くの人士と親交する。

・荊州に戻るとき、見送りに来た人士に評を与える。まず、「陸績は駑馬(どば)だが足が速い。」(才気が表に出ないが、実際は高い能力を秘める。)また、「顧劭(こしょう)は鈍牛だが重荷を運べる。」(マイペースだが、大きな成果を出す。)更に、「全琮は善行をもって、名声を得ようとする。智力はそれほど多くないが、当代の傑物なのは間違いない。」
・龐統の言葉通り、彼等は皆活躍し、特に全琮は重鎮になる。




劉備に仕える
・劉備(荊州牧)により従事(補佐官)とされたが、同時に、南方の県の令に任じられる。(つまり、本拠地から出された。理由は記されない。)

・赴任後、任地をしっかり治めない。(特に要地ではないため、やる気になれなかったのだろう。)結果、免官となったが、魯粛が劉備に書簡を送る。「龐統は大きな器量を持っており、一県を治めることには向きません。州の要職を任せたとき、初めていい仕事をしてくれます。」

・劉備はそこで、龐統と会って話し、大器と認める。かくて龐統は、治中従事に任じられる。(治中従事は、州庁で文書を担当。)段々、諸葛亮に次ぐ信頼を受け、軍師中郎将に任じられる。(諸葛亮と同じ官職。)


・益州の攻略を進言する。劉備は、「それは信義に背く行為だ」と言う。それに対し、龐統はこう言う。「今は天下が乱れており、臨機応変に動く必要があります。今益州を攻略し、資質の劣る領主(劉璋)に取って代わるのです。そのあと善政を敷けば、天下に信義を示すことができます。もし我々が益州を取らなくても、別の誰かに取られるでしょう。」(龐統は要するに、儒教的体面を整えた。実際は強引な理屈だが、通常の倫理が通じない時代。)劉備は、この言に同意する。(劉備も内心、益州奪取を決めていたが、建前を欲していた。)




益州攻略1
・劉備の益州攻略に随行する。到着後、こう進言する。「会見の際劉璋を捕らえましょう。兵を交えず一州を平定できます。」(州奪取後、どう支持を得るかが問題だが、龐統は恐らく、土着豪族を味方に付ける算段だった。劉璋は常々、外来勢力を重用し、土着豪族は不満あり。)しかし、劉備から、「性急すぎる」と却下される。(恐らく、劉備は世評を案じた。)

・劉備は涪(ふ)で劉璋と会見。その後北方に駐屯し、龐統もこれに随行する。劉備は一方で、張松(劉璋の参謀)と気脈を通じている。やがて事が露見し、劉璋は張松を殺害。劉備は、反逆に取り掛かる。


・龐統は、三つの策を献じる。
・「成都の守備は手薄です。昼夜兼行で成都に急行し、一気に劉璋を倒します。これが上策です。」
・「劉璋の名将楊懐、高沛が白水関にいます。彼等は度々成都に書簡を送り、我々を帰らせることを勧めています。我々は彼等に使者を送り、荊州に危急の事態が生じたと称し、帰還する旨を告げるのです。彼等は元々将軍(劉備)に敬服している上、望む事態になったことを喜び、必ず挨拶に来るでしょう。そこで彼等を捕らえ、その軍勢を併呑するのです。以上は、中策です。」(龐統は、周到に情報収集していた。その上で、冷徹な献策。)
・「白帝城を経由して荊州に帰り、作戦を練り直します。これは下策です。」

・最後に締めくくる。「ともかく、このまま何もせずにいたら、破滅を待つのみです。」その後、劉備は中策を採用する。楊懐、高沛を会見に誘い、その場で殺害する。




益州攻略2
・劉備は成都に向けて南下し、龐統もこれに随行する。劉備の軍は行く先々で勝利し、涪(ふ)を占拠する。(龐統は、劉備の相談役の筆頭。情勢判断、軍略により、絶えず貢献していたと思われる。)

・劉備は涪を制圧後、宴を開く。劉備が「今日は実に愉快だ」と言うと、龐統は劉備を諌める。「我々は、他国を侵略しているのです。せめて慎むのが、仁者の務めです。そんなに楽しんではいけません。」(龐統は、基本的に儒家。)劉備は腹を立て、龐統は席を立つ。
・やがて龐統が席に戻ると、劉備は気を使いつつ言う。「どちらの態度が誤っていたか?」龐統は「君臣共に誤っていました」と答え、劉備は笑う。

・劉備の軍は、雒(らく)城に到着する。これを落とせば、南に成都城。龐統は軍を率い、雒城を攻撃したが、流れ矢に当たり討死する。劉備は大いに悲しみ、龐統に爵位を遺贈する。その後、劉備は雒を陥落させ、成都の劉璋は降伏。


陳寿は龐統を評して言う。「風雅で人物批評を好み、経学と策謀に優れ、荊州にあって才能を称揚された。魏で言えば荀彧、荀攸に相当する。」(策謀家であると同時に、儒家色の強い人物。)




諸葛亮 法正 馬良 馬謖 魯粛 


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