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バチョウ モウキ
馬超 孟起
  
~西涼の猛将~

 西方の実力者。韓遂共々、独自の勢力を率い、羌(きょう)族も味方に付ける。曹操に反乱し、苦戦させたが、離間策で敗れる。その後も、曹操と抗争を続けたが、やがて劉備に帰順。



初期
・司隷の右扶風郡出身。馬騰(関中の群雄)の子。(関中とは、長安以西の一帯。右扶風も、この地域に属する。)また、母は羌族の混血。
・馬騰は、盟友韓遂と仲違いし、何度も交戦する。馬超もこれに参加する。馬超は、若年の頃から勇名を馳せ、戦場では自ら戦闘に加わる。閻行(韓遂の将)の矛を身に受け、危機に陥ったこともある。やがて、馬騰、韓遂は曹操に仲裁される。

・鍾繇(しょうよう)の指揮下に入り、郭援(袁尚の将)と対戦する。(鍾繇は曹操の部下。)馬超は足に矢を受けたが、指揮を続行し、敵軍を撃破する。
・馬騰が東方(右扶風郡)に赴任。馬超は馬騰に代わり、軍閥をまとめる。(馬騰は後に、朝廷に入る。)




対曹操
・曹操が漢中を狙い、西方に進軍する。このとき、馬超は、韓遂に反乱を説く。韓遂が、「我らの家族が曹操の元にいる」と言ったが、馬超は決行を促す。(どういう心境だったのか不明。)韓遂は同意。
・韓遂共々、潼(とう)関に進軍する。(他の関中軍閥も、徐々に集結。)後に曹操は馬騰を殺害する。

・韓遂に対し、作戦を提案する。「渭水(いすい)の北岸に砦を築き、渡河を牽制するべきです。」(大局を見据えた画策。)しかし、韓遂は却下。「むしろ、渡河中の敵を襲撃すべき。」(曹操は後に、このやり取りを知り、馬超の方に感心したという。)
・曹操は渡河に取り掛かる。軍が渡り終える度、馬超が騎兵で襲撃する。更に、渡河中の本軍を襲い、盛んに矢を射かける。曹操は苦戦したが、渡河に成功する。

・曹操と会見することになる。自らの腕力を自負し、曹操を捕らえることを考える。しかし、許褚(曹操の親衛隊長)を警戒し、取り止める。会見は終わり、当面和睦。(双方、探り合い。)
・離間策にはまり、韓遂と曹操の内通を疑う。そうして、軍内の連携は瓦解。その後、総攻撃を受け、全軍が潰走する。




冀城攻略
・羌(きょう)族を扇動し、曹操の領地を荒らさせる。(曹操は常々、馬超を警戒していたが、理由の一つは羌族への指導力。)
・冀(き)県に進軍する。(冀県には、曹操配下の韋康(涼州刺史)が駐在。)長期戦ののち、韋康は降伏し、馬超は一族共々殺害する。その後、夏侯淵(曹操配下の名将)が到来したが、馬超はこれを撃退する。

・楊阜(韋康の参謀)が復讐を計画し、馬超の家族を殺害。その後、馬超の軍を奇襲する。馬超は敗走し、漢中の張魯を頼る。
・祁(き)山に進軍し、姜叙(楊阜の一族)を討伐する。しかし、曹操配下の張郃(ちょうこう)が援軍に来る。馬超は、無理せず撤退。(前には、堅固な砦。後ろには、魏屈指の名将。)




劉備に仕える
・劉備が劉璋(益州牧)と敵対し、やがて成都(益州の首都)に進軍する。馬超は、劉備の配下に入る。ほどなく劉璋は降伏。(関中の強豪が劉備に付いたことで、益州は孤立した。)

・張飛、呉蘭と共に武都郡(雍州)を攻略。首都の下弁県に進軍し、曹洪(魏の重鎮)と対峙する。やがて呉蘭が敗れ、蜀軍の一角が崩れる。張飛、馬超は、戦況の不利を悟り、撤退を決める。

・蜀王朝が成立すると、驃騎将軍、涼州刺史に任じられる。(馬超の存在は、蜀王朝の箔付けになった。)涼州は、実際は魏領。建前上の任命。




逸話
・楊阜が曹操にこう進言。「馬超は古代の韓信、鯨布のような武勇を持ち、羌族からの信望も厚いので、警戒すべきです。」
・荊州にいる関羽が、諸葛亮に手紙を送る。「馬超の実力は誰に匹敵するか?」諸葛亮は返書して言う。「馬超は文武の才を持ち、古代の鯨布、彭越のような武勇があります。戦場では、張飛と功を争える人物です。」(その後、関羽を持ち上げ、「髭殿(関羽)には及ばない」と述べる。)

陳寿は馬超を評して言う。「勇を頼みに行動し、一族を滅亡に導いた。残念なことである。しかし、己の身を全うできただけでも、幸運だったと言えるかも知れない。」




関羽 張飛 黄忠 趙雲 馬騰 韓遂


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