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チョウウン シリュウ
趙雲 子龍
  
~実直、有能な指揮官~

 蜀の将。劉備に仕え、親衛隊長を務める。長阪の戦いで活躍。将軍となり、劉禅の時代には、中護軍も兼ねる。



初期
・冀州(きしゅう)の常山郡出身。当初、公孫瓚に仕える。
・公孫瓚が劉備に命じ、田楷(青州刺史)の元に行かせる。趙雲はこのとき、劉備の主騎(親衛隊長)となり、青州に随行する。

・「趙雲別伝」によると、身の丈は八尺(約185cm)。雄々しい容貌。故郷にいた頃、郡府に仕える。やがて、郡を挙げて公孫瓚に帰順。公孫瓚が、「袁紹に付く者が多い中、君は何故正道を選んだのか?」と言うと、趙雲は「仁政に従うのみです」と答える。(なお、公孫瓚には、仁政の評判はなかった。趙雲はあくまで、期待を述べたのだろう。)




荊州時代
・劉備は、荊州の劉表の傘下に入り、博望で夏侯惇(曹操の将)と対峙。「趙雲別伝」によると、趙雲はこれに参加し、敵将夏侯蘭を捕らえる。趙雲は、同郷出身の夏侯蘭を、「法律に詳しい者」として推薦。以後、夏侯蘭とは距離を置き、疑われるのを避ける。(賢明な性格が分かる。)

・劉表死後、曹操が荊州に侵攻する。劉備は民を引き連れ、逃亡を始めたが、長阪で曹操の追撃を受ける。趙雲はこのとき、劉備の幼子阿斗(劉禅)、及び甘夫人を保護する。(親衛隊長として、本領を発揮。)この活躍により、牙門将軍に任じられる。


・「趙雲別伝」によると、荊州諸郡の討伐に参加。桂陽郡の平定が終わると、太守の趙範に代わり、新たな太守に任じられる。その後、趙範から縁談話を持ち出されたが、警戒して断る。案の定、趙範は姿をくらます。(なお、趙雲の本伝には、桂陽太守になったという記述はない。「趙雲別伝」には「太守になった」とあるが、実際は、太守代行という形だったと思われる。)




益州時代
・劉備が益州を攻略する。趙雲は、諸葛亮と共に援軍となり、各地を平定しながら進む。(諸葛亮が軍を率いた記述は、これが最初。歴戦の趙雲の貢献は、当然大きかったと思われる。)
・劉備は、益州を制圧する。趙雲は、翊軍(よくぐん)将軍に任じられる。「趙雲別伝」によると、趙雲は民の慰撫を進言。
・「趙雲別伝」によると、漢中防衛に参加。寡勢で攻撃をかけ、曹操の軍を退ける。再び敵勢に向かい、味方の将(張著)を救出し、陣営に帰還。敵軍が到来すると、あえて陣門を開け、伏兵の存在を疑わせる。敵軍は混乱し、退却しようとする。趙雲はこれを急襲し、大勝する。


・劉禅が即位すると、中護軍に任じられる。(中護軍とは、首都の軍を取りまとめる官。趙雲は武才だけでなく、冷静な判断力も備えていた。)また、征南将軍も兼ねる。後に鎮東将軍に昇進。(いずれも高位の将軍職。)
・諸葛亮が北伐を開始する。趙雲は囮の軍を率い、曹真(敵の主将)を引き付ける。(重要な任務。諸葛亮からの信頼度が分かる。)その間に、諸葛亮は三つの郡を制する。
・馬謖が街亭に駐屯したが、作戦を誤って敗北。(これにより、蜀軍の連携が崩れる。)趙雲は大軍の前に敗れたが、軍をしっかり取りまとめ、敵の追撃を断ち切る。


・「性質は重厚。陳到共々、精鋭の兵を率い、猛将として活躍した」と記される。(陳到の功、位は趙雲に次いだという。)
陳寿は黄忠、趙雲をまとめて評する。「果敢、雄壮で猛々しく、主君の爪、牙となって活躍した。」




関羽 張飛 馬超 黄忠


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