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郭図は佞臣か?


袁紹の時代1
 郭図(かくと)は、袁紹の参謀の一人。献策よりも、同僚と権力争いしているイメージが強い。
 しかし、実像はいまいち分からない。記述自体が多くないので、色々想像の余地がある。

 まず、袁紹政権は基本的に、複雑な性質を有していた。そこに目を向ける必要がある。
 袁紹は、豫州汝南郡の出だが、北方の冀州に割拠した。家臣の中で、郭図・辛評は、豫州潁川郡の出身。田豊・沮授・審配は冀州出身。他に、逢紀・許攸は荊州南陽の出身。
 当時の中国では、人は地元との繋がりが強い。出身地という要素が、重要性を持っている。特に、士大夫と呼ばれる層は、豪族として地元に地盤あり。

 袁紹は、屈指の名族出身だが、冀州人から見てよそ者。袁紹はまず、冀州人士の協力を必要としたが、同時に彼等の権勢を警戒する。一方、郭図とは、基本的に距離が近かったと思われる。
 袁紹政権は、当初は沮授が重用されていたが、次第に郭図が台頭した。袁紹に上手く取り入ったと言えるが、袁紹にとっても、郭図の存在は重要だったと思われる。(冀州人士への対抗馬。)


 郭図とは、どんな人物だったのか。正史を見ると、元々は朝臣で、荀彧らと共に活躍した。家柄、政才を備えた人物と分かる。また、袁紹の配下に入ってのち、帝への謁見を任されている。士大夫らしく、謹厳、優雅な雰囲気を有していたと思われる。
 また、沮授が以前に、帝(献帝)を迎えることを進言。郭図はこのときは、「面倒を抱えるだけ」と反対する。後に、帝に謁見して考えを変え、袁紹に帝を迎えることを勧めた。朝廷、帝の様子を実際に見て、何らかの展望を見出したのだろう。(しかし、袁紹は却下。)相応の洞察力を有していた。




袁紹の時代2
 後に、袁紹は曹操と敵対する。沮授、田豊は持久戦を主張。「こちらは国力で勝る以上、内政と防備に努めていれば、敵は何もできず自滅する。」しかし、郭図、審配は、短期の決戦を説く。「情勢はどう変わるか分からず、今後曹操が力を付ける可能性がある。今の内に決着を付けるべき。」

 袁紹は、郭図らに従う。当時、南には孫策、西には馬超・韓遂がおり、情勢は依然流動的だった。(加えて、袁紹の家臣団は内紛気味で、時が経てば何が起きるか分からない。)郭図らの主張には、一理あったと思われる。
 また、郭図は本来、冀州に地盤を持たず、立場は必ずしも強固ではない。自分に権勢がある内に、曹操打倒の功臣となり、立場を固めるという算段があったかも知れない。


 やがて、袁紹は、官渡で曹操と対峙する。郭図は都督。(漢の官職ではなく、袁紹が州軍の中に設置。)他に沮授、淳于瓊が都督に在任している。しかし、沮授は病ということで、その軍は郭図に移管。一方、淳于瓊は烏巣(補給地)に赴いたため、郭図が官渡の諸軍を管轄した。

 袁紹は途中まで、優勢に戦局を進め、曹操は撤退を考える。しかし許攸が寝返り、情報が漏れ、曹操は烏巣に向かった。
 郭図は烏巣の救援より、曹操本営の攻撃を説き、袁紹は同意。(張郃(ちょうこう)がその任を与えられる。)その後、曹操は烏巣を撃破する。(紙一重だったとされる。)
 一方、曹操の本営の守りは堅く、名将の張郃も勝つことはできない。烏巣敗北後、張郃は曹操に帰服。(郭図が讒言(ざんげん)したため、とされるが、それが主な要因かは分からない。)

 郭図は確かに、官渡の敗戦の一因を作った。(戦局眼は、それほど優れていなかった。)しかし、それまで、官渡で軍政を支えていたのも郭図。(そして、許攸の寝返りの前まで、袁紹軍はずっと優位を保っていた。)




袁譚の時代
 袁紹は本拠地に戻る。当時、長子袁譚、三子袁尚の間に跡目争いが存在。郭図・辛評が前者、審配・逢紀が後者を支持していた。後漢書には、「袁譚が長子であるため、支持者が多かった」と記される。
 袁紹は袁尚に肩入れしていたが、郭図ははっきり袁譚を支持。主君に取り入るより、冷静に今後を考えて態度を決めた、ということかも知れない。(実際の思惑は、決して分からないが。)

 袁尚が跡を継いでのち、郭図は袁譚をそそのかし、反乱を起こさせる。郭図と審配は、互いに長らく政争し、後戻りが難しい状況にあった。また、政争が深化した根本原因は、袁紹が明確に跡継ぎを決めなかったため。郭図のみに非を求めるのは、必ずしも正しくない。


 やがて、袁譚側は劣勢になる。郭図は、曹操への帰服を進言。(袁尚との和睦より、曹操に(一時)付くことを考えた。)袁譚はこれに従い、曹操に使者を送り、許諾を得る。(曹操にとっても、袁譚・袁尚の亀裂が深まるのは好都合。)袁譚は、そのまま本拠地に駐在。
 曹操が袁尚の本拠地を囲むと、その間に、袁譚・郭図は北方を攻略する。冀州諸郡を曹操から取り戻し、勢力を拡大。(恐らく、武力、政略を両方用いた。)これは、郭図の当初の計画通りだった。立案前には、十分情勢を分析し、奪還が可能であることを見越したのだろう。

 袁譚はその後、曹操と対し、一時は撤退寸前まで追い込む。しかし、曹操は踏み止まり、態勢を整えて逆襲。袁譚、郭図は共に敗死する。郭図の計画は、結局、紙一重のところで失敗に終わった。




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