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荊州問題はいかに収拾されたか?


経緯
 孫権と劉備は、協力関係にあり。しかし、荊州の領有権を巡り、トラブルが発生する。なかなか解決に至らず、不安定な情勢が続いた。
 この荊州問題は、全貌が少し分かりにくい。最初に、経緯をまとめてみる。


 赤壁戦後、劉備はまだ、孫権の傘下という立場。やがて、荊州四郡(武陵、長沙、零陵、桂陽)を平定し、ある程度の地盤を得る。
 また、こういう記述がある。「程普が南郡太守になってのち、孫権が劉備に荊州を分け与え、程普は江夏郡に移った。」孫権は、劉備に南郡を与えた。(時期は四郡平定後。)

 しばらくのち、劉備は益州を平定し、勢力を確立する。孫権は、劉備に長沙・零陵・桂陽を求めたが、劉備はこれを拒否。(正確には、「涼州を取ってから明け渡す」と返答。)劉備は、配下の関羽(荊州に駐屯中)に命じ、孫権の行動に備えさせた。

 孫権は魯粛を用い、これに対処させる。あるとき、魯粛は関羽と会見。「借りた土地を進んで返そうとせず、こちらが三郡のみの返還を求めても、これに応じようとしない」と問責する。つまり、孫権は劉備に、長沙・零陵・桂陽を含む数郡を貸した。




詳細
 劉備と孫権の間には、まず、以下のような協定があったと思われる。
 「荊州四郡は、本来、孫呉が取る筈の土地。しかし、もし劉備が平定に成功したら、そのまましばらく貸しておく。然るべき時が来たら、返すように。」
 当時、劉備は孫権の傘下にあり、地盤もろくに持たない。孫権は、劉備の四郡攻略を支援し、(平定後は)自治を認めるとした。

 また、南郡に関しても、「貸す」という形だったと思われる。この南郡は、以前に周瑜(呉の名将)が制圧した。周瑜の死後、孫権は劉備をここに配置。恐らく、領土として認めた訳ではない。


 孫権が劉備に、諸地を与えたのは、曹操に対抗させるため。(また、劉備に恩を売るため。)
 取り分け、南郡の首都の江陵県は、軍事的要地。孫権は、負担の多いこの江陵を、あえて劉備に任せた。劉備の勢力伸長より、対曹操が第一であると判断。(魯粛の進言による。)




単刀赴会
 魯粛と関羽の会見は、一般に、「単刀会」または「単刀赴会」と呼ばれる。参加者は全員、護身用の刀を一本だけ持って臨んだ。
 当時、国境地帯は不穏な状況。軍の衝突が起こる前に、現場のトップ同士で話を付ける、という主旨だったと思われる。
 魯粛が会見に赴く前に、配下の者が制止。魯粛はこう言う。「この件は、直接会い、腹を割って話し合う必要がある。また、関羽が劉備の意を離れ、暴走することはないだろう。」
 会見の内容は、上で簡単に記したが、改めて詳細をまとめてみる。


 両者の会見が始まると、まず関羽が、劉備の赤壁での努力をじっくり語る。続いて、「土地を取り上げようとするのは、理不尽ではないか」と問う。
 事前の協定では、劉備はあくまで仮の領主。時機が来たら、孫権に返す必要がある。しかし関羽は、協定自体を理不尽とした。(四郡を平定したのは劉備自身、という事実もある。)

 魯粛は当然、この言葉に反駁する。その要点は、「呉は、劉備の苦境を救うべく、ずっと手を差し伸べてきた。」「荊州を貸したのもその一つ。」「劉備は既に益州を手中にし、地盤を得たのだから、荊州は返すべき。」「私物化は、義士のすることではない。」(なお、孫権は四郡だけでなく、南郡という要地を劉備に与えている。)関羽はこれに反駁せず。




説得法
 事前の取り決めに基づけば、荊州の諸郡は、当然孫権に属する。理屈抜きで、劉備側に非がある。しかし、魯粛はあえて、根本から道理を述べた。

 孫権が劉備に援助したのは、勿論戦略上の打算あってのことだが、現実に恩義の関係が生じている。魯粛はそこを強調する。(魯粛自身、親劉備派として、絶えず奔走してきた。)
 義は関羽の信条。また、義は当時の共通倫理でもあり、社会的規制力があったと思われる。
 魯粛は、「義と照らしたとき、何が正しいのか」を説き、関羽から一定の合意を得た。(軍事衝突の回避。)理屈で言い負かした、というのとはちょっと違う。

 また、関羽はあくまで、劉備の配下。独断で強硬姿勢は取れず、当面のトラブルを収めることが責務だった。義に従ったということなら、面子も立つ。


 少しのち、曹操が漢中を占拠。劉備はこれに対処するため、孫権とは和議を結ぶ。結果、呉は江夏郡・長沙郡・桂陽郡、蜀は南郡・武陵郡・零陵郡を有することとなった。
 もし単刀赴会がなければ、国境での争いは深化していたかも知れない。その場合、スムーズな和議は実現しなかったと思われる。




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