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一般に、「曹操は革新派、袁紹は保守派」といわれる。家柄を考えると、これは自然なイメージと思われる。
しかし、「実は、曹操の方が保守派である」という見方もある。実際のところ、どうなのだろうか。
曹操は旗揚げしてのち、帝を奉じて補佐する。表面上はずっと、漢王朝の守護者であり続けた。
漢という王朝は、儒教と一体である。儒家の名士たちは、その多くが、漢王朝に忠誠を持っている。曹操は、漢を重んじることで、彼等から支持を得た。(有名な荀彧(じゅんいく)は、その代表格。)
曹操は天才的な人物だが、同時に、堅実な性格でもある。時勢に十分配慮しながら、地道に体制を固めていった。
一方の袁紹は、河北(黄河の北)に割拠。中原(中国の中心部)から距離を置きつつ、大いに戦略を考える。
袁紹はまず、現皇帝を認めない。当時の皇帝は、献帝(劉協)という人物。この献帝はかつて、暴君董卓が強引に擁立した。
袁紹は、献帝の代わりに、劉虞(りゅうぐ)を帝に立てることを画策。これは当人に断られるが、袁紹はすぐに方針を変え、独自の秩序を河北に築いていく。官職は冀州の牧(長官)だったが、周りの三つの州も制し、支配者として振舞った。
これらの事実を見ると、袁紹は、曹操より革新性があると言える。破天荒な性格を有していた。
その特徴は、何より人事にある。
この時代、名士(儒家の人士)のコミュニティが、地域を超えて広がっていた。官界とは別に、自律的な組織を形成。袁紹はこれを利用し、独自の人事を行ったとされる。
後漢の初期や中期も、名士と呼べる層はいたが、血縁、地縁、学閥によって分裂していた。後漢の後期、彼等は宦官勢力を前に団結し、(行いによる)名声のみを基準とした集団を形成する。(「清流派」を自称。)つまり、派閥を超えた統一的ネットワークができあがった。
宦官滅亡後も、このネットワークは存続し、絶えず救世を志す。これを活用した袁紹は、時代の先端を走っていたと言える。
しかし、彼等名士の大半は、豪族の出身でもある。つまり、地元と強い結び付きを持っている。名士たちは、結局、地縁による派閥を重んじざるを得ない。
また、彼等は豪族の中でも、官僚の家系に類する。そして、袁氏はそのリーダー格。袁紹は、現皇帝を否定しても、王朝自体を否定する訳にはいかない。体制を築く際も、自ずと、漢王朝の国体に沿ったものになる。
結果、袁紹の政治は、それほど革新的にはならなかった。豪族出身の儒家官僚が、政権の中核を占める点。彼等が地縁にこだわる点。これらは、後漢王朝と同じであった。
そもそも、「名士」になるには、どうしても家柄が物を言う。(絶対条件ではないにせよ。)袁紹は、根本的な改革者とは呼べない。
なお、袁紹はしばしば、様式的なことを重んじたという。破天荒を好む面はあったが、一方では、名家の御曹司らしく振舞う。この点でも、革新的な人物にはなりにくかった。
曹操は、漢の帝を奉じる一方、絶えず時代の変革を目指す。基本方針は、法治を重んじ、品行を軽んじる。
かつて、後漢の中期、各地で名家(官僚を輩出する豪族)が定着。彼等は、礼教を重んじ、品行の正しさを示すことで、指導者としての正当性も保った。
彼等は仁徳を掲げ、絶えず地元の安定に貢献する。その反面、家柄、外面的品行が偏重される社会になり、閉塞感も生じる。
曹操は法のみを問題とし、礼教的倫理から人々を解放した。
また、曹操が法を徹底したことで、豪族の権勢は抑制される。結果、横暴な豪族だけでなく、名家(儒家官僚の家系)も過度な力を持ち得ない。
加えて、曹操は布令を発し、「人を登用する際、才のみを問題にせよ」と強調した。
曹操の領内では、次第に、公平な人事が行われる。品行に問題があっても、家柄に恵まれなくても、自由に登用される。時代の閉塞感も払拭された。
このように、曹操は袁紹に比べ、根本的な改革を行っている。総合的に見れば、やはり、曹操は革新派、袁紹は保守派と呼ぶことができる。(勿論、曹操の政治の流儀が、袁紹より優れているという訳ではない。実際は長短がある。)
当時の世は、混乱期であると同時に、政治的、文化的なマンネリが存在。豪族中心の権力体制、規範で固められた礼教社会、いずれも色あせていた。変革を望む者は多く、彼等は、袁紹より曹操を支持した。(有名な荀彧・郭嘉も、この例だろう。)
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曹操は革新派か?保守派か?
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曹操は革新派か?保守派か?
曹操と袁紹
曹操は、新興の勢力。袁紹は、後漢の名門貴族。一般に、「曹操は革新派、袁紹は保守派」といわれる。家柄を考えると、これは自然なイメージと思われる。
しかし、「実は、曹操の方が保守派である」という見方もある。実際のところ、どうなのだろうか。
曹操は旗揚げしてのち、帝を奉じて補佐する。表面上はずっと、漢王朝の守護者であり続けた。
漢という王朝は、儒教と一体である。儒家の名士たちは、その多くが、漢王朝に忠誠を持っている。曹操は、漢を重んじることで、彼等から支持を得た。(有名な荀彧(じゅんいく)は、その代表格。)
曹操は天才的な人物だが、同時に、堅実な性格でもある。時勢に十分配慮しながら、地道に体制を固めていった。
一方の袁紹は、河北(黄河の北)に割拠。中原(中国の中心部)から距離を置きつつ、大いに戦略を考える。
袁紹はまず、現皇帝を認めない。当時の皇帝は、献帝(劉協)という人物。この献帝はかつて、暴君董卓が強引に擁立した。
袁紹は、献帝の代わりに、劉虞(りゅうぐ)を帝に立てることを画策。これは当人に断られるが、袁紹はすぐに方針を変え、独自の秩序を河北に築いていく。官職は冀州の牧(長官)だったが、周りの三つの州も制し、支配者として振舞った。
これらの事実を見ると、袁紹は、曹操より革新性があると言える。破天荒な性格を有していた。
袁紹の政治
袁紹は具体的に、どのような体制を敷いたのか?その特徴は、何より人事にある。
この時代、名士(儒家の人士)のコミュニティが、地域を超えて広がっていた。官界とは別に、自律的な組織を形成。袁紹はこれを利用し、独自の人事を行ったとされる。
後漢の初期や中期も、名士と呼べる層はいたが、血縁、地縁、学閥によって分裂していた。後漢の後期、彼等は宦官勢力を前に団結し、(行いによる)名声のみを基準とした集団を形成する。(「清流派」を自称。)つまり、派閥を超えた統一的ネットワークができあがった。
宦官滅亡後も、このネットワークは存続し、絶えず救世を志す。これを活用した袁紹は、時代の先端を走っていたと言える。
しかし、彼等名士の大半は、豪族の出身でもある。つまり、地元と強い結び付きを持っている。名士たちは、結局、地縁による派閥を重んじざるを得ない。
また、彼等は豪族の中でも、官僚の家系に類する。そして、袁氏はそのリーダー格。袁紹は、現皇帝を否定しても、王朝自体を否定する訳にはいかない。体制を築く際も、自ずと、漢王朝の国体に沿ったものになる。
結果、袁紹の政治は、それほど革新的にはならなかった。豪族出身の儒家官僚が、政権の中核を占める点。彼等が地縁にこだわる点。これらは、後漢王朝と同じであった。
そもそも、「名士」になるには、どうしても家柄が物を言う。(絶対条件ではないにせよ。)袁紹は、根本的な改革者とは呼べない。
なお、袁紹はしばしば、様式的なことを重んじたという。破天荒を好む面はあったが、一方では、名家の御曹司らしく振舞う。この点でも、革新的な人物にはなりにくかった。
曹操の政治
曹操は袁紹と異なり、名族出身ではない。余計な足枷がなく、自由に行動できる。曹操は、漢の帝を奉じる一方、絶えず時代の変革を目指す。基本方針は、法治を重んじ、品行を軽んじる。
かつて、後漢の中期、各地で名家(官僚を輩出する豪族)が定着。彼等は、礼教を重んじ、品行の正しさを示すことで、指導者としての正当性も保った。
彼等は仁徳を掲げ、絶えず地元の安定に貢献する。その反面、家柄、外面的品行が偏重される社会になり、閉塞感も生じる。
曹操は法のみを問題とし、礼教的倫理から人々を解放した。
また、曹操が法を徹底したことで、豪族の権勢は抑制される。結果、横暴な豪族だけでなく、名家(儒家官僚の家系)も過度な力を持ち得ない。
加えて、曹操は布令を発し、「人を登用する際、才のみを問題にせよ」と強調した。
曹操の領内では、次第に、公平な人事が行われる。品行に問題があっても、家柄に恵まれなくても、自由に登用される。時代の閉塞感も払拭された。
このように、曹操は袁紹に比べ、根本的な改革を行っている。総合的に見れば、やはり、曹操は革新派、袁紹は保守派と呼ぶことができる。(勿論、曹操の政治の流儀が、袁紹より優れているという訳ではない。実際は長短がある。)
当時の世は、混乱期であると同時に、政治的、文化的なマンネリが存在。豪族中心の権力体制、規範で固められた礼教社会、いずれも色あせていた。変革を望む者は多く、彼等は、袁紹より曹操を支持した。(有名な荀彧・郭嘉も、この例だろう。)
曹操は革新派か?保守派か?
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