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夏侯惇の実像とは?


正史と演義
 夏侯惇は、魏の功臣。曹操の腹心で、親族でもある。
 正史では、政治家、軍人として、多様な活躍をしている。曹操の旗揚げ時から従い、労苦を共にしてきた人物。常々、曹操から特別な評価を受け、功を称えられた。
 一方、小説「三国志演義」では、名将、勇将として描かれる。その反面、正史に比べ、単純な人物像になっている。


 正史の夏侯惇は、派手な活躍は欠けている。逆に、目に付く失敗が二、三ある。
 よく言及されるのは、呂布の偽投降を信じたこと。(正確には、呂布の部下達の口車による。)恐らく、実直な性格のため、騙し合いには向かなかった。

 また、小沛で高順(呂布の将)、博望では劉備に敗れる。これらが、殊更に取り沙汰されることがあるが、敗戦の記述はこの二つ。一方、戦勝の記述も、河東郡の反乱を鎮めた話のみ(杜畿伝の記事)。戦績に関する記述(独立して一軍を率いた記述)が、そもそも少ない。(なお、博望では、猛進して伏兵に敗北。これは演義と同様。)

 正史の夏侯惇は、初期は曹操本軍に属し、側で補佐に尽力。常に行軍に付き従い、戦勝を支えていた。後には、荀彧(曹操の重臣)の補佐を務め、本拠地の防衛に貢献する。夏侯惇は、副将的な立場での活躍が多い。




幹部として
 夏侯惇はやがて、二つの郡(陳留・済陰)で順に太守を務める。続いて、河南尹(首都圏の長官)に任じられる。後には、26軍の司令官となり、呉との国境に駐屯した。
 このように、夏侯惇はしばしば、重要な組織を任されている。


 こういう説をたまに見る。「夏侯惇は、失敗が続いたから、名誉職、閉職に回された。」こんな捉え方が生じるのは、派手な記述が少なく、失敗が目に付きやすいためと思われる。実際は、たくさんの地味な貢献の合間に、失敗もあったということだろう。

 混乱の時代、人事は重要性を持つ筈。不適格な人物に、地方長官や駐屯軍を任せるとは考えにくい。当時は、三国成立後と異なり、情勢は流動的だった。夏侯惇は自身、手腕を備えた人物だったに違いない。部下達に任せていれば、自動的に物事が回るという訳にはいかず、随時に政治的判断を要しただろう。
 また、陳留太守時代は、自ら農事を指導し、際立った治績を挙げた。




大きな長所
 夏侯惇は、河南尹時代、曹操からある通達を受ける。その内容は、「今後、上からの法令に縛られず、独自の裁量で事を決してよい」というもの。夏侯惇は、それだけ知性を信頼されていた。


 夏侯惇は実直な性格で、日々学問に精進し、教養を備えている。そのため、確かな判断基準を持ち、事務の処理もできる。また、曹操が中小勢力だった頃から、様々な労苦を乗り越え、現実を知っている。地方長官として、かなり適材だったと思われる。判断や決定に一貫性(及び現実性)があれば、官民は納得しやすく、自然と上手くまとまる。
 夏侯惇は、組織の統括者としても、貴重な存在だったと思われる。派閥争いなどを起こさせず、無難に一枚岩にできる。軍事面でも、兵法能力より、諸将のまとめ役として尽力した。(兵法に関しては、そこそこだったと思われる。)

 夏侯惇は、曹操陣営の根幹にあって、地道に貢献し続けた人物。演義に比べると、あまり派手さはない。しかし、曹操への貢献度は、演義以上と思われる。




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